written by
月白雪花さま



 Baby panic





  偶然というのは恐ろしい。
  俺、和谷義高はその日、心の底からそう思った。




  伊角さんの初手合いの日、オレも手合いが入っていたのは偶然だった。
  おそらく、この日起こった数々の偶然のうち、唯一オレの心を明るくしてくれるものだったろ
 う。
  オレ以外に、進藤や越智、本田さんといった院生時代からの仲間も同じく手合いが入っていた
 のも、まったくの偶然だった。
  それと、オレの天敵である搭矢や兄弟子の冴木さんもこの日、手合いで棋院に来ていたことも、
 喜ばしいことではないがオレにはどうしようもない偶然の産物だった。
  昼休み、普段手合い中は飯を食わないという搭矢を進藤が無理やり引っ張り、前述のメンバー
 全員でぞろぞろと近くのマックに食いに行ったのも、ただなんとなくである。だか、棋院内でカ
 ツ丼でも食ってれば、あんなことは起きなかったのではないかと思うと、悔やんでも悔やみきれ
 ない。
  とにかく、ハンバーガーひとつまともに買えない搭矢を進藤と二人でからかい、越智の減らず
 口におろおろとする本田さんを励ましたり、車道を歩いて伊角さんに注意されたりしながらオレ
 たちは棋院に戻ってきた。
  そのとき、棋院の建物の前でベビーカーを押していた女性が、こちらに向かって手を振りなが
 ら「慎ちゃん」と言った。
  オレの隣を歩いていた伊角さんは、その声に「あ」と言って、小走りにその女性に駆け寄った。
  当然オレたちもぞろぞろとその後を追う。
  よく見ると、その人は九星会出身のプロ棋士で、4年ほど前に同僚のプロ棋士と結婚した人だっ
 た。
  これも予期しない出来事だった。
  棋院の建物の前で、九星会出身のプロ棋士がベビーカーを押し、たまたま通りかかった後輩を
 呼び止めるなんて、そんなにあることじゃない。
  ちなみに、九星会出身の、特に20代半ば以上の女流棋士は、伊角さんのことを「慎ちゃん」
 と呼ぶ。高校に入った頃から背が伸びた伊角さんは、それまでは小柄で、九星会ではお姉さん方
 のいいオモチャだったらしい(今もそう変わらないと思うけど)。なんとも羨ましい話だ。
  それはともかく、彼女は散歩がてらに夫の忘れ物を届けに来たが、それまで眠っていた赤ん坊
 がここに来て目を覚ましてしまい、棋院内で泣かれたりしては困るのでどうしようかと思案して
 いたらしい。
 「わーちっけー。オレ赤ちゃんってあんま近くで見たことないんだよなー。搭矢、お前も見てみ
 ろよ。」
  ここ半年でこちらがびっくりするほど大人びた進藤だが、碁盤を離れると、以前と変わらない
 子供っぽい顔をすることも少なくなかった。
  進藤に袖を引かれ、おっかなびっくりと言った様子で搭矢がベビーカーを覗き込む。子供が苦
 手なのか?
 「ホントだ、可愛いなー」
  そう言って本田さんも顔をほころばす。赤ん坊を見て午前中の緊張がほぐれたみたいだ。
 「興味ないね」
  と言いつつ横目でちらちらとベビーカーを見る越智の様子を笑うと、思いっきり顔をそらされ
 てしまった。相変わらず可愛げのねーやつ。
 「青い服着てるから男の子かな?」
  と後ろに立っている冴木さんに聞くと、今時は関係ないんじゃないか、と返された。
  そんなオレたちを微笑ましげに見ながら、子供の母親はどうしようかしら、と言った。
 「じゃあ、まだ時間ありますから、俺が赤ちゃん見てますよ」
 「本当?有り難う、慎ちゃん。助かるわ。じゃあ、すぐに戻るからよろしくね」
  十中八九、最初からこれを狙って声をかけたのだろうが、一応すまなそうな顔を作って彼女は
 棋院の入り口に向かった。
 「あ、ねえ、抱っことかしてもいいですか?」
  進藤の言葉に、にこやかに頷いて彼女は扉の向こうに消えた。
 「わー、赤ちゃん抱くのって初めてかも」
  よっと言いながら進藤が赤ん坊を抱き上げた瞬間、まさしく火がついたように赤ん坊が泣き出
 した。
 「うあわあぁぁぁ、ど、どどどうしよう、搭矢!パス!」
  まるでボールのように赤ん坊を渡された搭矢は、瞬間、見たこともないほどうろたえ、数秒オ
 ロオロした後、隣の越智に赤ん坊を押し付けた。
  押し付けられた越智は、一度大きく目を見開き、すぐさま本田さんに赤ん坊を渡し、その次の
 瞬間には当然のようにその隣のオレに回された。
  前の4人同様、赤ん坊の扱いなど知らないオレは、バケツリレーよろしく後ろの冴木さんの腕
 の中に赤ん坊を預けた。
 冴木さんがぎこちない手つきで何とかあやそうとするものの、赤ん坊は一向に泣き止まない。
  焦りばかりが増してくる。
 「何やってんだか、もう」
  そんな声が動揺するオレたちの耳に届いたかと思うと、冴木さんの腕の中から赤ん坊が消え、
 同時に辺りに響いていた泣き声もやんだ。
  何が起こったのかと周りを見渡すと、赤ん坊は伊角さんの腕の中でご機嫌な笑い声を上げてい
 た。
 「うわーすげぇ、伊角さん、どうやったの?魔法みてぇ」
 「慣れてるなぁ、伊角さん」
  進藤や本田さんの言葉に、伊角さんは照れたように笑った。
 「いや、別にそんなすごいことじゃないよ。俺、弟と年が離れてて、昔よく面倒見てたから。昔
 取った杵柄ってやつだな」
 「いや、すごいって!だってさっきの搭矢や越智の顔見た?普段できないことはありませーんみ
 たいな澄ましたツラしてんのに、さっきの慌てようったらさぁ」
 「な!仕方ないだろう!僕は今まで周りが大人ばかりで小さい子の扱い方なんて知らないんだか
 ら」
 「大体、進藤こそずいぶんな慌て様だったじゃないか。」
  カラカラと笑う進藤に、すかさず搭矢と越智が言い返す。いつもの調子が戻ってきたらしい。
 「なんだと!」
 「まあまあ、そこら辺にしとけよ」
  年長者らしく三人を窘めた冴木さんは、そのまま伊角さんの腕の中の赤ん坊を覗き込んだ。
 「小さい手だなぁ。これじゃ、やっと石ひとつ持てるぐらいだな」
 「本当ですね」
  そう伊角さんが笑って返した瞬間、



  ぎゅ。



  その、やっと碁石ひとつ握れるかどうかという小さな手には、つい先ほど赤ん坊に差し出され
 ていた冴木さんの、ムカツクくらい長く整った人差し指が握られていた。
  しばしの沈黙。
 「………と、取れない」
  沈黙の間に、何とか指を外させようとしていたらしい。
  いつもの様子からは想像できない冴木さんの情けない声に、傍で見ていたオレたち5人は一斉
 に吹き出してしまった。
  搭矢や越智さえも肩を震わせている。
 「赤ん坊の力って意外に強いですからね。一度掴んだものはなかなか放しませんよ」
  テレビCMなんかの新米ママさんのような笑顔で言った伊角さんは、赤ん坊の顔を覗き込みな
 がらとんでもないことを口にした。


 「パパのお指が気に入ったのかな?」



  発言者である伊角さんと、その腕の中の赤ん坊以外、半径五メートル以内のすべてが凍ったの
 を、オレは確かに感じた。



  別にこれはギャグが滑った時のような凍り方ではない。例えるなら、そう、バレンタインデー
 にクラスで一番人気のある子が、やたら綺麗にラッピングしたチョコを持って、「やっぱバレン
 タインだしねー」などといった時のクラス内の反応だ(自分で言っててわけわかんないけど)。
  確かに、院生時代から時々妙なことを言ってオレや奈瀬にからかわれていたが、中国から帰っ
 てこっち、その天然に拍車がかかってさらにターボがついた感じだ。オレでなくても、中国で何
 があったのか問いただしたくなるものだろう。



 凍りついたオレたちを救ったのは、思ったより早く戻ってきた赤ん坊の本当の母親だった。




 「あー、びっくりしたけど、面白かったな、赤ちゃんって」
  そんなことを言いながら、進藤・搭矢・越智・本田さんがエレベーターに向かう。
  その後ろを伊角さんと冴木さんが並んで続き、先ほどの爆弾発言からの回復が最も遅かったオ
 レが最後尾だった。
  久々に小さい子を構えて機嫌がいいのか、伊角さんがやたらめったら可愛い笑顔を冴木さんに
 振りまく。
 「伊角は子供、好きなんだな」
 「ええ。可愛いだけじゃないですけどね、子どもって。でも、好きですよ」
 「じゃあ」



 「何言ってるんですか!!」
  エレベーターがチンと音を立てて開いた瞬間、叫び声ひとつ残した伊角さんが、首まで真っ赤
 にして階段を全力疾走して行ってしまった。
  わけがわからなかったらしく、何事かと振り返った4人に、何でもない、と手を振った冴木さ
 んの顔は、面白くないくらい緩みきっていた。
  前の4人には聞こえなかったようだが、後ろにいたオレは不幸にも、本当に不幸にも、この兄
 弟子の発言が聴こえてしまった。



 「じゃあ、俺たちも作る?コドモ」




  オレは断言する。
  この兄弟子は、囲碁で五段になる前にタラシのタイトルホルダーになる、と。






  数日後、「すっごく良く撮れたの、見て見て」という桜野さんから渡されたのは、オレの心の
 アルバムの伊角さん笑顔ランキング歴代5位以内に入るような鮮やかな笑みを浮かべる伊角さん
 と、その横で少し困った表情の冴木さん、そして、二人の間でご機嫌な笑顔で冴木さんの指を握っ
 ている赤ん坊、という、知らない人が見れば、実に幸せそうな三人家族に見える写真だった。
  あの日、桜野さんも手合いがあったのは知っていたが、一体何時の間にあの場に来てこれを撮っ
 たのだろう。しかも、何故手合いの日にカメラを持っていたのだろう、この人は。
  偶々だとしたら、なんと恐ろしい偶然だ!



  そして、どういうルートでかこの写真を見て何か勘違いしたらしい森下師匠が、俺の門下でで
 きちゃった婚など許さんぞ!と冴木さんを叱ったのは、また別の話である。










 fin.





 またやってしまいました…。サエスミ←ワヤ。いい加減世間
 様のニーズに応えてみるということをしないんでしょうか、
 この人は。相変わらずうちの冴木さんは和谷より強いです。
 今回は和谷視点のコメディーに挑戦してみたんですが、どう
 でしょう。普段似非シリアスばっかり書いてるので、コメデ
 ィーは苦手です。楽しんで頂ければいいのですが。
 登場人物が思いのほか多くなってしまって大変でした。案外
 ヒカルが動いてくれて助かったんですが。
 では、長々とお付き合いいただき本当に有り難うございまし
 た。

 月白 雪花


月白雪花様からまたもや素敵な小説を頂きました〜!vv元院生ズたちの可愛いさもさることながら、指つかまれちゃってる冴木が可愛い…!!vそれなのにちゃんとタラシモード発動というこの美味しさ(>_<)vv月白さん、可愛い小説をありがとうございました〜!!
(2003.05.15)