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『カナリヤと炭酸水』
P46より
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揺れる視界がふと、立ち尽くす菊丸の左肩に貼り付いたシャツを映した。先程までは体の陰になっていて気がつかなかったが、彼の左半身はしっとりと重たく濡れている。それが不二を雨から護るために傘をこちらに多く差し向けていたためだということは考えずともわかった。こんなところまで、彼は以前の彼と同じだ。
彼はこうして、今でも不二を護ってくれている。
ちゃんと、ここにいる。
「──その人のこと、好きなんだね」
静かに訊ねられ、不二はそっと睫毛を伏せた。
「うん」
胸の奥深くから湧き上がってくる感情に、吐く息が震えた。
閉じた目蓋の裏側で、浮かんできた記憶の中の愛しい笑顔が緩やかに滲む。
「うん、好きだよ」
もう一度はっきりと告げると、菊丸が微かに息を呑んだような気がした。
睫毛を押し上げて、目の前の瞳を見遣る。彼が何かを訊ねようとする気配を感じ、先に口を開いて答えを告げた。
「遠くに行っちゃったんだ。いなくなってしまったわけではないんだけど、本当は近くにいるんだけど、もう会えないんだ」
「……」
「今は僕が──勝手に想ってるだけ」
静かにそう告げて、そっと微笑んだ。
黙ったまま不二を見つめる菊丸の瞳が痛みを堪えるように微かに揺れ、不二は再び睫毛を伏せる。
音も無く伸ばされた菊丸の指が、不二の頬に触れた。
彼の優しい指先が涙を拭う感触に、ぎゅっと強く目を閉じる。そうしていないとまた新たな涙が溢れてしまいそうだった。
ここにいるのに、会えない。どうしてうまくいかないのだろう。
頬を滑る柔らかな体温が、ぽっかりと空いた心の隙間に染み込んでいく。
諦めようと決めたはずなのに。こんなにも痛みは胸を締め付け、こんなにもどうしようもなく、彼を求めている。
どうして、うまくいかないのだろう。
「ごめん…今日は帰って」
掠れた声で囁き、俯いたままそっと菊丸の胸を押した。
「これあげる」
傘を彼の手ごと押し付けるようにして渡し、背を向けて玄関へと走って中に滑り込むと急いでドアを閉めた。
荷物を投げ捨ててドアに背を預ける。俯いた拍子に前髪から滑り落ちた雫が足下に小さな滲みをつくった。
厚いドアに遮られた微かな雨音が湿った服の上から不二を包み込む。
望んでいいことと望んではいけないこととの境界線が雨に打たれて霞むのを感じ、ドアにもたれたまま両手で深く顔を覆った。
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