| クレヨン クローゼットに頭を突っ込んでいる準太の、丸められた薄い背中を見つめる。 Tシャツ越しに動きが伝わってくるその骨格は無駄の無い筋肉に覆われてはいるがひどく華奢 に見えて、この躰があの球を投げているのかと思うとどうにも不思議な感じがした。 「あれ? 確かこの辺にあったと思ったんだけど…」 がさごそと中を掻き回しながら呟かれたその声に、利央は無意識に目の前の浮き上がっている 肩甲骨へと伸ばしかけていた手を慌てて引っ込めた。 準太の部屋に二人きりでいるのだと思うとそれだけで理性は端から綻び出し、鼓動は早鐘を打っ た。だが肝心の想い人はと云うと、こうして無防備に背を晒したまま利央のことなど完全放置と いうわけで。 探し物を始めてからもう優に三十分は経っていたが、その間、視線が合うことすら無かった。 「捨てちゃったんじゃないの?」 いつものことだと思いながらもやはり面白くないことには変わりなく、声に不貞腐れた色が滲 む。 「いやそんなはずねーって」 「もういいじゃん。諦めようよ、準さん」 やはり振り返りもせずにさらりと無視をした準太の手が、今度は別の引き出しを開け始めた。 そもそも準太が真剣な面持ちで探しているゲームソフトを最初に欲したのは、他でもない利央 だった。 「ああそれなら俺持ってるぜ。部屋のどっかにあるはず」 たまたま昔よくやったそのゲームの話になり懐かしがっていたら準太がそう言ったのでぜひ今 度貸して欲しいと頼んだわけなのだが、その時は、まあ気が向いたらな、などと面倒臭そうな声 が返ってきただけだった。 それなのに、呂佳にその話をしたら彼も久しぶりにやってみたいと言っていたと伝えた途端、 手の平を返したようにこうして一生懸命探し始めたというわけで。 「──納得いかねぇ」 この変わり様は何なのだとこれまたいつものことながらやはり面白くなくて、ボソリと呟いて 薄い背中を見遣った。 細い溜息を漏らして彼からほんの少しだけ離れた所へ並んで膝を付き、中を覗き込む。 この距離が重要だ。理性と衝動との境界。許された領域。近い熱。微かな、痛み。 クローゼットの扉の内側は几帳面そうに見えて意外と大雑把なこの部屋の主らしく、いかにも 物を無理矢理押し込んだだけというさながら無法地帯の様相だった。 「…ぐちゃぐちゃ」 「ああ? 何か言ったか利央?」 「言ってない言ってない。あ、ねえ、その箱は?」 ジロリと睨まれ、慌てて奥から端の覗いていた洋菓子の箱を指差すと、 「…ん? 何だったっけかなこれ」 準太は視線を箱へと移して小首を傾げた。骨格同様、ほっそりとして見える白い指がそれを掴 んで引っ張り出し、そのおかげで崩れ落ちてきた雑誌の山のことなど気にも留めずに花の模様が 描かれた蓋を開ける。にじり寄って少しだけ距離を縮めて一緒に覗き込むと、随分と久しく目に していなかった品々がそこには詰められていた。 「うわ、こんなのまだ取ってあったんだ。すげぇ使えねー」 言葉とは裏腹にどこか嬉しそうなくすぐったい笑みを浮かべた準太を、思わず瞬きを忘れて見 つめた。そんな利央の鼓動の速さになど気づいていない様子で、準太が中から赤と青の二色に塗 られたカスタネットを拾い上げてふわりと笑った。 「これ、幼稚園の時の」 こちらに向けてカチカチと鳴らして見せる彼に、ああもうなんなんだよこの人勘弁してくれよ と利央は染まってしまった頬を隠すように視線を逸らして心の内で呟いた。本当に、勘弁してほ しい。 「お、クレヨンじゃん。懐かしー」 静まれ鼓動、と祈りながら手を伸ばして中からオレンジ色の紙箱を取り出してごまかす。彼の こんな微笑みが自分に向けられるのは貴重なことなのだからもっとじっくり眺めればいいのに、 こうして直視することすらできない自分は本当にどうしようもない。 「なに赤くなってんのおまえ」 怪訝そうに眉根を寄せられて、慌てて手をひらひらと振る。 「いや、なんかちょっと暑くて」 本当のことを言ったらまた臍を曲げられてしまうかもしれないと苦しい嘘をついてみたのだが、 どう思ったのか彼はだったら離れろとも何とも言わず、ただ、ふうん、と呟いてすぐに視線を逸 らした。 さわりと心の襞が揺れる。 仄白い目蓋にかかる黒髪に触れたくて、手をぎゅっと握りしめた。 キスしてしまおうか。 衝動は甘く、染み渡るように、深く。 だが利央の指が伸ばされるよりも早く準太の手がクレヨンの箱を開き、そのふわりと広がった 柔らかく湿った香りに緩やかに阻まれてしまった。 後悔とも安堵ともつかぬ想いが胸に広がったが、それでもなお、間近に感じる体温は甘く優し い。 「それも幼稚園の時の?」 「そう。これすぐ折れちゃうんだよな」 くたびれた紙の箱に並ぶ色とりどりのクレヨンはどれも使い込まれていて、その内何本かは折 れてしまっていた。幼い日の準太が残した、可愛らしい熱意の痕だ。 「なんか水色だけすげぇ使ってあんね」 その中でも際立って短い水色は掴んで描くのがやっとの長さで、それ一本だけがひどく目につ いた。 「ああ俺、ガキん時やけに水色が好きだったみたいでさ、なんでもかんでも水色に塗っちゃって たらしくって」 へえ、と彼の知らない一面を垣間見れたような気がした途端に、急に小指の先ほどのクレヨン の欠片が特別なもののように思えてくるから不思議だ。そっと摘み上げると、冷やりと湿った懐 かしい感触が指先に馴染んだ。 「ほら、輪郭っていうの? そういうのまで全部水色で描いてたんだよな俺。そのおかげでガキ ん頃の絵、何かみんなぼんやりしちゃってんの」 「よっぽど好きだったんだねこの色」 「だろうな」 相槌を打った準太の声がどことなく上の空であるような気がして横目に見遣ると、彼は遠い記 憶を辿るような顔で利央の指先をぼんやりと見つめていた。 ゆっくりと、長い睫毛が上下する。 「それとも、その頃の俺には世界が本当にそんな色に見えてたのかもしれない」 全部、薄いんだ。 そうポツリと呟いて、準太は自嘲するようにひっそりと笑った。 それは何か大切なものを諦めてしまったような、温度の無い投げ遺りな笑い方で。 「そんなの…っ、」 たまらず声を荒げて準太の腕を掴む。 彼がひどく繊細な子供だったということを、少しだけ聞いたことがあった。ほんの、少しだけ。 それ以上は話してくれなかった彼が、そんな自分の弱い部分を恥に思っていることは随分前から 気づいていた。 準太は、まるでわかっていない。 彼の目に映るのが薄くぼやけた世界であると言うのならば。 この自分は、その水色の世界にすら、嫉妬する。 「そんなの、ただこの色が好きだったっていうだけだろ」 波立った感情を無理矢理に撫でつけて静かに告げると、僅かに目を見張って利央を見返してい た準太の表情がふいに緩んだ。 「だな」 呟いて、今度は屈託なく笑った。 水色の世界をまだ胸の奥に残しながらも、今の彼はしなやかに、強い。 利央と出会ったばかりの頃にもまだ多分に持っていた危うさをどうにか覆うだけの薄い衣を手 に入れたのだ。そこに辿り着くまでには例えば利央の尊敬と悔しさの念を一身に集めるあの捕手 の力が大きく作用しているということくらい嫌になるほどわかっていた。それはもう、本当に、 嫌になるほどに。 準太を変えた道程の、そのほんの片隅にでも自分の姿はあるのだろうか。 「そうだって。子供の時なんてさ、好き嫌いが極端に片寄ってたりすんじゃん。それにさ、色だっ て今よりずっと綺麗な色に映ってたかもしんないし」 「おー何か利央のくせに中々いいこと言ってるよ」 「俺のくせにって何だよ、俺のくせにって!」 いつもの準太の得意な、どこか甘さを残した意地の悪い表情で言われて唇を尖らせる。 「おまえに諭されるようじゃ俺も終わりだな」 むくれた利央を心底楽しそうに見遣りながら小馬鹿にしたように笑う彼のその姿には、やはり 可愛気の欠片も、無く。 それなのにどうして、こんなにも、自分は。 「まあ確かにガキの頃って今ではもう見えない色も見えてたりしたのかもしれないし、その代わ りに今では当然知ってる色も知らなかったりするんだろうけど。好きだと思う色も、今よりずっ と限られてたのかもな」 「だからさっきからそう言ってんじゃん。その頃の準さんにとって一番好きな色がこれだったん だってば」 もどかしさと甘やかな想いが混じり合って不貞腐れた子供のように言い返して睨む。 「ああ、そうだな。クレヨン、この十二色しか持ってなかったし。それに──」 すると予想外に素直に頷いて身を乗り出してきた準太が、息の触れそうな距離で利央の瞳を覗 いた。 「それに、こんな色なんて知らなかったし」 白い指が利央の前髪を引っ張り、悪戯めいた笑みを落として離れていった。 「利央?」 呼吸を忘れて見つめていたことに気づいて慌てて息を吸い込み、誤魔化すように瞬きを繰り返 す。 躰は遠ざかったのに、残された熱はどこまでも深く胸を浸して。 「…だから、なに赤くなってんだよおまえは」 呆れたように眉根を寄せてそう訊ねた準太の頬も淡く染まっていて、利央の体温がまたするり と上がった。 fin. --------------------------------------------- (20050830) |
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