| 柔らかい殻 テニスバッグを開けた不二の手が止まった。 「……」 「どした?」 そのまま持っていたラケットを仕舞わずにしゃがみ込んでいる彼を訝しく思い、着替えを中断 して背中越しに手元を覗き込む。 開かれたファスナーの中にあったそれを見て、思わず息を呑んだ。 「…んだよ、それ」 喉の奥を締め付けられているように声が掠れた。 バッグの中から静かに取り出した「それ」を、不二が顔色一つ変えずに眺める。 蛍光灯の明かりに晒されて、その折られたラケットの傷跡が鮮やかに浮かび上がった。 地面に強く叩き付けたのだろう。フレームが割れ、弛んだガットが不規則な線を描いている。 事態を認識した瞬間、菊丸の頭に幾人かの顔が浮かんだ。 アイツらだ。 込み上げてきた激しい怒りに目の裏がカッと赤く染まる。 ごく一部とはいえ部の中に「天才」の存在を快く思わない者たちがいるのは確かだった。不二 の才能を妬んだ彼らがあらぬ中傷を口にするのを何度も耳にしている。 先週行われたランキング戦が彼らの感情を煽ったに違いなかった。 上級生たちを差し置いてレギュラーの座を勝ち取った不二を、彼らが快く思っているはずがな い。 「また派手にやってくれたよね」 菊丸が激したのを感じ取った不二が、そう呟いて少し困ったような顔で笑った。宥めるように。 怒るのでも、悲しむのでもなく、困惑の色だけを滲ませて。 また、だ。 「…何で怒んないんだよ」 胸の奥の方から込み上げてきた怒りに、押し出した菊丸の声が震えた。 それは、頭に浮かんだ上級生たちに対するものとは別の種類の怒りだった。そこにはもっとも どかしく、やりきれない哀しさが含まれている。 「怒ってるよ。ただもう壊れてしまったからには仕方がないし」 やはり困ったように不二が答えた。 怒っているなど、もちろん嘘で。 不二はいつも、自分自身のためには感情を動かさない。 「それにこっちじゃなくて良かったよ。これ、入学祝いに父さんに買ってもらったやつだから」 手に持ったままだった方のラケットを持ち上げて見せながら、不二が穏やかな顔でそう告げた。 壊された方のラケットは、確か彼が随分前に自分の小遣いを溜めて買ったものだったはずだ。 もうだいぶ使い込まれていて最近ではほとんど使っていない。それなのに常にバッグに入れて持 ち歩いているそれが彼にとってどういう物であるかなんて明白だった。 仕方がない、で済ませてしまっていいはずの物であるわけがない。 「俺、明日アイツらに話つけてくる」 「いいよ、英二。たいしたことじゃないから」 「たいしたことだろ!」 思わず声を荒げると、不二は少し驚いたように目を見張った後やはり困ったような顔をした。 その表情に菊丸の苛立ちが増す。 「もういいんだよ。アイツらだってこれで気がすんだだろ」 「そんなこ、」 「英二」 やんわりと、だが抗えない響きで制されてゆるゆると口を閉じる。 「上級生と揉めたら面倒だよ。…英二は、」 一度言葉を切った不二の手が伸びてきて、冷たい指先が菊丸の頬を軽く撫でた。 「こんなつまらないことに巻き込まれたりしたら駄目だ」 そう呟いて微笑った不二はどこか温度を感じさせない透明さに覆われていて、よく知っている はずなのに知らない誰かのようだった。 手を伸ばせば触れる距離にいるのに、彼の心はひどく遠い。 離れていく影を必死に掴もうとするかのように気持ちが急いて、菊丸は胸の中でバラバラに散っ ている言葉を掻き集めようと焦った。 「この前だって、」 そこまで告げて、後に続くはずだった言葉を呑み込む。 菊丸の腕に静かに置かれた不二の白い手を黙って眺めた。 その手と淡い微笑みを見て、確信する。彼は菊丸の言葉の続きをちゃんとわかっている。 あの日、用具の片付けを終えて着替えに向かった部室のドアの前で「不二」という単語を聞い て二人は足を止めた。ドアの向こうから漏れ聞こえてくるその声の主から察するにどうせロクな 話題ではない。菊丸が不二を促して部室から離れようとした、その時。 ──アイツ天才だか何だか知らねぇけどさ、いつも何考えてんのかわかんねー顔して気味が悪 いよな。どっかイカレてんじゃねぇの? 嘲笑と共に流れてきたその声に、部室に飛び込もうとした菊丸を不二が慌てて止めた。相手は 上級生だったが殴って謹慎になっても構わないと思った。だが、そんな菊丸の体を押さえながら、 不二はやはり困ったような顔をしただけだった。 不二は、いつでもそうやって怒ることができないのだ。 それを優しさと呼んでしまうのは容易かったが、それとは異なるものであることを菊丸は知っ ていた。 不二は、自分自身が嫌いなのだ。 だから中傷されても傷つかない。傷つくことができない。 他人のためにしか、怒れない。 「不二、」 「いいんだよ。本当のことだし」 呑み込んだはずの言葉を口にしようとした矢先に、不二の優しい声が注がれた。 そこにはやはり自虐の響きも投げやりな色も含まれておらず、彼の透明な微笑みを見たくなく て菊丸は俯いた。 湧き上がる感情の渦が胸を灼き、痛みに目眩がしそうだった。 悔しくて、ただ悔しくて、握りしめた拳が細かく震える。 「俺、不二のそゆとこ嫌い」 顔を上げて彼を見据え、絞り出すように呟いた。 ざらざらとした物が胸の内側を削っていく。 鳶色の瞳が真直ぐに菊丸を見つめ返した後、ふ、と視線が和らいだ。 「僕は英二のそういう真直ぐなところ、好きだよ」 澄んだ声でそう告げ、不二はふわりと笑った。 慈しむように、心の隙間に沁み入るように。 彼の微笑みはいつも優しくて残酷だ。 「…っ」 不二のポロシャツの胸元を掴んで乱暴に引き寄せ、微かに見張られた瞳を視界の隅にとらえた ままその仄紅い唇に噛み付くように口付けた。 手から滑り落ちたラケットがたてたカランという乾いた音が、どこか遠い音となって響いた。 触れ合った彼の唇は冷やりとしていて、その温度と柔らかさにまた少し哀しくなった。 込み上げてきた捩じれた熱が胸を締め付け、目の奥が熱くなる。 抗うことなく睫毛を伏せた不二が受け入れようとしているものがいったい何であるのか、菊丸 にはわからなかった。 引き寄せたのと同じ唐突さで彼の体を離し、俯く。 不二が、傷ついてくれたらいいのに。 たとえほんの少しでも、傷ついてくれたらいいのに。 菊丸が放った『嫌い』という言葉に。 「…嘘だよ。嫌いなわけないじゃん」 視線を床に落としたまま呟いた声に、涙が滲んだ。 固く目を瞑って堪えようとするのに溢れてきた熱が次々と頬を伝って流れ落ちていく。 凍えた手に息を吹きかけて暖めるような、柔らかな吐息が不二の唇から零れる音を聞いた。 「うん、知ってる」 穏やかにそう告げた不二の手が音もなく伸びてきて菊丸の頭をそっと抱き寄せた。彼が瞳を閉 じて緩やかに微笑むのを、気配で感じた。 「だから泣かなくていいんだよ」 菊丸の髪を撫でながら、ゆっくりと慈しむように不二が囁いた。 その指も声も微笑みも全て、偽りのない彼の心のもので。 二人の熱が混じり合い次第に温もりを増していくその腕の中で、菊丸は声を出さずに涙だけを 零した。 本当は自分のためなんかじゃなく、彼のために泣いていることなんて。 不二は、きっと知らない。 fin. --------------------------------------------- 一年生の終わり頃あたりの話。 (20040525) |
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