はさみ





  俯いた拍子に落ちてきた前髪が視界の端を切り取り、ほとんど習慣になった仕草でそれを掻き
 上げた。
 「伊角さん、前髪伸びたね」
 「…何か切りに行くの面倒臭くって」
  答えながら指の隙間を滑り落ちていく髪を上目遣いで眺める。
  さすがに伸びたかな、と目の前まで簡単に持ってこれる毛先を見ながら頭の中で来週の予定を
 さらった。
  火曜日なら予定が空いている、と思った瞬間、諦める。確か火曜日は定休日だったはずだ。
 「切ってやるよ」
  ふいに思考を遮った声に、え、と視線を上げるとやけに楽しそうな顔で和谷がニヤリと笑った。
  悪い予感に慌てて断ろうとして、これまたすぐに諦めた。
  嫌でも知っている。
  これは、言い出したらきかない時の顔だ。
 「ものすごく不安なんですけど…」
  伊角の返事を待たずに小物入れの中を漁り始めた和谷の背中にささやかな抵抗を試みてみたが、
 「大丈夫だって。俺けっこう上手いぜ?」
  やはりというか予想通りというか、あっさりと却下されてしまった。
  和谷の弾んでいる声に嫌な予感が一層増し、近い未来の姿を憂いながら前髪を弄る。
 「はさみあったよ」
 「……」
  満足気に振られたそれを見て頭痛がしそうになった。
 「俺は図工の宿題じゃないんだぞ、和谷」
  黄緑色のプラスチックの柄に、丸い刃先。
  どう見ても工作用のそれに、情けない声を上げた。が。
 「大丈夫だって」
  どこからくるのかわからない自信に溢れた声で、即答。
  ガクリと肩を落とした伊角は、微塵も迷いを感じている様子の見られない彼を恨めしく思いな
 がら薄く睨んだ。
 「…俺の髪だからいいやとか思ってないかおまえ…?」
 「心配すんなって伊角さん。こういうのはさ、使い慣れてる方がいいんだって」
  そりゃ使い慣れているだろう。
  プラスチックの柄には『ももぐみ わやよしたか』と書かれてある。
 「わかったよ。やってくれ」
  込み上げてきた数々の文句の言葉を呑みこんで、諦めて腹を括った。
  いったい何がそんなに楽しいのか、ひどく上機嫌な和谷が鼻歌まじりに袖を捲る。
 「はい、これ。広げて持ってて」
  新聞がないので代わりに渡された古い雑誌を、切った髪が畳に落ちないよう顎の下の辺りで広
 げて持った。ちょっと間の抜けた光景だが仕方がない。
 「じゃあ切るよ」
  櫛でざっと梳いた前髪を、和谷の指が掬った。
  髪と一緒に胸の奥の何かがふわりと浮き上がったような気がして、目を閉じた。
  シャリ。
  シャリ。
  目蓋の向こう側で微かな音を立てながら切り落とされていく髪が、パラパラと雑誌の紙面を打
 つ。
  どれも微かな音のはずなのに、脳の深い処が震えるのを感じた。
  閉ざされた視界が感覚を鋭くし、髪にまで神経が行き渡っているように錯覚する。
  それはひどく無防備に自分を晒しているような。
 「…切りすぎるなよ」
 「まかせろって」
  和谷の弾んだ声が耳にくすぐったい。
  刃が擦れ合う乾いた金属音だけが、空気の中に弾かれる。
  ふと、今自分は和谷に生殺与奪の権を握られているのだ、と思った。
  悪い気は、しない。
 「まだ?」
 「もうちょい」
  一通り切り終わり微調整に入ったようで、髪を掬い上げられる感触が消えた。
  いつの間にか鼻歌も止んでいる。
  代わりに髪と額の間を滑らせるようにはさみの刃が入ってくるのを感じた。
  刃の背の部分が微かに額に触れ、冷やりとした金属の感触が意識の端を掠め取る。
  ゾクリ、とした。
 「よし、こんなもんかな」
  和谷が少し体を離して眺める気配を感じた。
  目を開けていいものか迷っていると、
 「上出来」
  満足気に呟かれた声と共に彼の指が伊角の目蓋に触れた。
  思わず小さく震えてしまい、和谷がフッと息を漏らすように笑ったのがわかった。
  目蓋から鼻、頬、と、彼の指が、切った髪の残骸を払っていく。
  羽毛で撫でられるような優しい感触と、肌の上に落とされていく柔らかな体温。
 「伊角さんもう目あけていいよ」
  静かに離れていった指を、もっと、と求めてしまいそうになって思わず赤くなった。
  目蓋を押し上げ、熱を払うように瞬きをする。
 「うん、悪くないな」
  そう呟いて目を細めた和谷の視線が髪ではなく伊角の瞳を真直ぐに捕えていて、頬に一層熱が
 集まるのを感じた。
 「…鏡取って」
  伊角は和谷から視線を外すと、慌てて前髪を手で梳いた。










  fin.





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遅くなりましたが伊角さん誕生日祝いに。ってこれ誕生日全
  然関係ない…(アイタタ!)。伊角さん22歳おめでとうvv
  (20040428)



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