小指の爪





  手当てしやすいように持ち上げた手を、佐伯の長い指が無造作に掴んだ。
  先程まで柔らかな陽の下にあったとは思えない、冷やりとした指だった。
  支えるということ以上の意味を持たないぞんざいな掴み方なのに、反対の手に握られたピンセッ
 トを扱う手付きはひどく繊細でどこか追い詰められたような慎重さが滲んでいる。
  細く開けられた窓から流れ込んできた風が端に寄せられている白いカーテンの裾を翻した。
  差し込む光の中で細かな埃がゆっくりと舞う。
  時折、風と共に遠い声が運ばれてくる他には何の物音もしない。佐伯が少し天根の方へと身を
 乗り出した拍子に、腰掛けていた丸椅子がキィと小さく空気を裂いた。
  無人の保健室はどこか空虚な安寧さに満ちていると思う。空っぽのような。懐かしいような。
  すぐ目の前の、綺麗に染められた前髪の隙間から覗く薄い目蓋を眺めた。
  天根の視線など気にもしてない様子で、空気の隙間をピンセットが滑るように動く。
  銀色に光るその先の脱脂綿から消毒液の匂いがした。
 「普通、舐めてくれるもんじゃないの?」
  呟くと、赤く染まった小指の数センチ手前でピンセットが止まった。
  押し上げられた佐伯の視線が天根のそれと絡む前に、疼く指先から流れ落ちていった血液が、
 パタ、と床に軽い音を立てた。
  静かに瞬きをした佐伯が、形のよい眉を顰める。
 「…男同士で普通もクソもあるか」
  不機嫌そうに言い捨てながら、消毒液の染みこんだ脱脂綿を天根の指先に押し当てた。
  そっと、くすぐったくなるような優しい手付きだった。
  冷たい液体の感触と共に、ジン、と神経に染み込む痛みが広がる。
  白い脱脂綿の先が赤く染まった。
 「利き手じゃなくて良かったな」
 「うん」
 「気をつけろよ」
 「うん」
  馬鹿みたいに頷きながら、空気を撫でるように静かに動く佐伯の指を見つめる。何か応えよう
 と言葉を探ったが、やはり何も出てこなかった。
  天根よりも伏目がちに手当てを続ける佐伯の方が何だか痛みを堪えているように見えて、胸の
 奥がざわざわとした。割れた爪を浸す血液も止まない疼きもどうでもいいと思った。
  消毒が終わり、ピンセットがトレイの上に置かれる。無機質な金属音にカーテンを揺らす風の
 音が混じった。
 「まだ血、止まらないな」
 「放っておけば止まるよ」
 「痛みは?」
 「もう、あんまり」
  嘘だったが、嘘でもない気もした。
  佐伯もたいして信じていないような顔で、それでも小さく頷いて引き出しの中をあさり始めた。
 頷いた時に何か呟いたように思えたが、聞き取れなかった。訊ねてみたところで答えないことく
 らい天根にもわかっていた。
  傷口に当てるパッドやらテープやらをパラパラと机の上に広げた佐伯が、作業を再開する。
  スラリと長い佐伯の指が器用に動く様を、息を詰めるようにじっと見つめていた。
  痛々しかった指先が清潔な白い治療用具に覆われていき、最後にくるりと包帯が巻かれた。
  礼を言おうとした、その時。
  包帯に覆われたその指を、佐伯の手が包み込むようにしてきゅっと優しく握った。
  ふわりと、祈るように。
 「ほら出来たぞ」
  心臓を直接温かな手で触れられたような気がした。
 「…ん、ありがと」
  するりと外された彼の指をぼんやりと目で追っていた天根が我に返ってそう言った時には、
 佐伯は立ち上がって後片付けを始めていた。
  包帯の巻かれた指をそっと眺める。
  目を閉じると、そこに柔らかな熱が残されているのを感じた。





 「サエさん、」
  前を行く背中に呼び掛けると、「ん?」と声だけが返ってきた。
  振り返らずに少し俯いて歩いている彼の、すらりとした細い項を見つめる。
 「また怪我したら手当てしてくれる?」
  僅かな間の後、足を止めた佐伯が肩越しに天根を見遣った。
  整った眉が不機嫌そうに寄せられている。
 「──こんな大事な時期に故障なんてしやがったら捨ててやるからな」
  愛想の欠片もない声でそう告げると佐伯はすぐに前を向いてしまった。心なしか、その歩調が
 早まったように思えた。
  彼に気付かれないように、天根は俯いてひっそりと笑った。
  どうせ、目の前の薄い背中はそれに気付いてしまうのだけれど。
  きっとまた彼は不貞腐れたような顔をして睨んでくるに違いない。
  天根は頬を緩めたまま、歩を早めて彼の隣に並んだ。










  fin.





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(20040216)



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