メモリーカード





  どこか聞き覚えのある音楽とざわめきが、金木犀の香る空気に乗って流れてきた。何だろうと
 隣を歩く伊角を見遣ると、彼もまた同じような顔で和谷を見返す。
 「あ、」
 「そっか。そういう時期だもんな」
  角を曲がったところで視界に飛び込んできた光景に、漸く記憶の線が繋がった。木の生い茂る
 古びたフェンスの向こう側に広がる小学校の校庭を、紅白のハチマキを付けた子供たちが元気に
 駆け回っている姿が見える。何となく足が止まり、二人は示し合わせたようにフェンスの外側か
 ら人垣越しにそれを眺めた。
 「おまえ絶対好きだったろ、運動会」
 「うん、かなり」
 「だろうなぁ。目に浮かぶよ」
  すぐ横に並んでフェンスに指を掛けた伊角が、目を細めてひどく嫌そうに和谷を眺めた。何だ
 よその顔はキスするぞ、と胸の中で独りごちながら、和谷は始まったばかりの玉入れ競技へと視
 線を移す。
 「伊角さんは?」
 「五本の指に入る嫌いな行事」
  予想通りとはいえあまりに即答だったので、思わず噴き出してしまった。やはり仏頂面で和谷
 を見返す彼の視線を受けながらも微かに腹が震える。
 「そんな嫌そうな顔しなくたっていいじゃん。ちなみに他の四つは?」
 「マラソン大会、水泳大会、球技大会」
  淀みなく並べられていくのがまた可笑しくて、和谷は喉の奥でククッと笑った。
 「一コ足んないけど?」
 「…秘密」
  続きを促すと、何故か一瞬、躊躇いを見せてから伊角がボソリと答えた。
 「何だよ、気になるじゃん」
 「秘密ったら秘密」
 「えー」
  そう言われると余計に気になるというものだったが、頑な子供のような顔で視線を泳がせてい
 る彼がそれ以上口にする気がないのは明らかだった。今までの経験上、ここは諦めるしかないだ
 ろうと判断する。
  ちぇ、と小さく抗議だけしておいて、和谷は目の前の光景と自分の記憶を重ねることに意識を
 向けた。
  高校に進学しなかった分、限られた思い出が色濃く目蓋の裏によみがえった。懐かしく思う気
 持ちとほんの少しの寂しさのようなものが胸の奥で静かに瞬く。
 「──う、」
  ふいに隣から上がった呻き声に我に返って視線を巡らせると、伊角が苦しそうに眉根を寄せて
 喉を手で押さえていた。
 「ど、どうしたの伊角さん?」
  そのただならぬ様子に慌てて訊ねると、彼はその体勢のままチラリと和谷を見て死にかけの蛙
 のような声で呟いた。
 「喉かわいた」
 「……」
  予想外の言葉に思わず絶句する。
  本気で心配しただけに、怒りが込み上げるというよりもむしろ途方に暮れてしまった。
  何だというのだこの人は。
 「──さっき飲んだばっかじゃん」
  何とか気持ちを立て直してそれだけ告げると、
 「仕方ないだろう。この音楽とか様子とか見ると喉がかわくんだから」
  苦しそうな顔はそのままで、さも当然、といった風に返されてしまった。
  今一つ納得のいかないその答えに困惑する。
  フェンスの向こうからは相変わらず賑やかな音楽と歓声が響いてきていたが、特段喉の乾きを
 覚えるということに結びつくものでもなかった。まして、眉を顰めるほどの。
  和谷の表情から察したのか、伊角が「あのな、」と話を切り出した。
 「高校の時、パン食い競争に出たらパンが喉に詰まって死にそうになったんだってば」
 「……」
 「その記憶が未だに俺を苦しめるんだ」
  露骨に呆れた顔になってしまったのが自分でもわかった。みるみる伊角の仏頂面が深まり、不
 服そうに唇が尖る。
 「おまえはな、どんなに苦しかったかわからないからそんな顔ができるんだよ」
 「…だってパンでしょ?」
 「クリームパンの威力を甘くみるなよ和谷」
  そんな真剣にクリームパンの脅威を諭されて、どう答えたらいいというのだろうか。
  ますます途方に暮れて何とも情けない顔で彼を見遣る。
 「いいか和谷、よく考えてみろよ? あの時、近くにいた知らないおばあさんがお茶をくれなかっ
 たらな、今ごろ俺は──」
  ふいに伊角が口を噤んだ。和谷を見つめる瞳の中に先程までは無かった色が滲むのを見て、和
 谷の胸の奥でコトリと何かが小さな音をたてる。
  伊角の唇がゆっくりと開いた。
 「ここにはいないかもしれないんだぞ?」
  静かに続けられたその言葉が、耳から滑り込んで心臓の裏側に音も無く落ちていった。
  無意識に止めていた息をそっと吸い込む。
 「…それは困る」
  微かに掠れた声で呟くと、「だろ?」と伊角がどこか安堵したような声で返した。
  ほんの一瞬だけ、神妙な面持ちで視線を交わし合う。
 「じゃあ何か飲むもの買いに行こーぜ」
  そう言って先に振り切ったのは和谷の方だった。促しながらも、どうしてもはにかんだような
 笑顔が浮かんできてしまう。
  柔らかな羽でくすぐられるようなこの感覚を、よく知っている。
 「ああ。確かこの先に自販機あったよな?」
 「どうせだからさ、ファミマ行こうよファミマ。ハバネロ食いたい」
 「おまえあんなのばっかり食ってると病気になるぞ?」
 「なんねーよ」
  言葉を返す伊角にもまた、同じ種類の笑みが浮かんでいた。
  このほんの僅かな、取るに足らない程度の温もりをこの手の中に閉じ込めてしまえたなら。
 「あ、俺、杏仁豆腐買ってこ」
 「フジッコの杏仁豆腐美味くない?」
 「美味い美味い。あーもうほんと喉かわいた。急げ、和谷」
  いつになく忙しない素振りで歩き出した伊角の後を慌てて追う。
  肩を並べながら、その横顔をそっと盗み見た。
  この人はこれから先もずっと、この季節になるとこうして理不尽な喉の乾きを訴えてくるのだ
 ろうか。切羽詰まったように、眉を顰めて。
  それも悪くないな、と和谷は密かに思った。










  fin.





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   (20041020)



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