冬の雀





  ゆっくりと瞼を押し上げると、視界に薄い灰色が広がった。
  少し遅れて、それがこの部屋の主の使っている毛布だと思い至る。何か暖かいと思ったらこれ
 だったのか、と柔らかく体を包む灰色の毛足に頬を押し付けた。
  頬を埋めたままそっと視線を横に向けてみると、並んでベッドに背を預けて座っている忍足の
 横顔が目に映った。彼は手元の本に集中していて、慈郎の視線にはまるで気付く様子がない。
  伸びた前髪が鬱陶しいのか、時折するりと本から離れた指がそれを払う。
  彼の指は長くとても綺麗な形をしていて、その指が静かに頁を繰る度に胸の奥の襞がさわさわ
 と揺れた。
  すぐ側にある体温に触れたくて、でもまだこうして見ていたくもあって。
  息をひそめるように見つめながら頬を乗せている膝をそろりと胸元に引き寄せた拍子に、ふと
 視界の端に褐色の影を捕えて慈郎は視線を毛布の上に滑らせた。ちょうど抱えた膝の下を辿った
 辺りに、毛足の根元に沈んだ色素の跡を見つける。
  考えるまでもなく、何であるのかすぐに分かった。
  コーヒーの、染みだ。
  あの日、衝動のままに抱き寄せた際に忍足の手にあったカップから溢れたものだった。
  他のことを考える余裕などあの時の慈郎にあるはずもなく、派手に溢れたそれは漸く頭が働く
 ようになった頃にはもう既にすっかり染み込んでしまっていたというわけで。
  そのまま実家に持って帰ってクリーニングに出すと言ったのだが、忍足は頑に嫌がった。
  コーヒー以外の汚れを気にしてのことで、それこそ原因は慈郎にあるのだし上手く誤魔化して
 おくと説得してはみたのだが結局彼は首を縦には振らなかった。頬を微かに染めて毛布を奪い返
 し、絶対にいやや、と珍しく必死に拒否する忍足の姿に思わず再び熱を上げてしまったところま
 でしかこの染みに関する記憶はない。
  洗濯機を使ったのかそれとも手洗いしたのかいつの間にかこうしてキレイになっていたが、や
 はりコーヒーの色素は落ちずに残ってしまったようだった。
  ごめん忍足、と声には出さずに唇を動かす。
  きれい好きの彼の持ち物を汚してしまったことへの謝罪ではなく、こんなにも嬉しく思ってし
 まっていることへのささやかな懺悔だ。
  彼や彼に付随するものに自分の跡を残す、この、酩酊。
  これを見て、彼も思い出せばいいのだ。慈郎の体温を。いつだって、何度でも。
  褐色の跡を眺めているうちに、ふいに抱き寄せた時の忍足の驚いた顔や睫毛の震えが脳裏に甦っ
 て胸が疼いた。
  陽に晒されていない部分の肌の白さ。寄せられた眉。熱を帯びた声。肩に縋る、指。
 「……」
  体温が、上がる。
  すぐ隣にある涼しい顔と記憶の中にある上気した顔との差違が、どうしようもなく鼓動を速め
 て息を詰まらせた。
  名前を呼ぼうとして口を開きかけて止め、毛布を外してそっとにじり寄るとぴたりと肩をくっ
 つける。布越しに伝わってきた彼の体温は毛布に暖められていた躰には温く判然とせず、そのも
 どかしさに言いようのない焦燥がじわりと胸に広がった。
 「なんやジロ。起きたんか」
  驚いたように瞬きを一つして、頁を繰る手を止めた忍足が本を閉じて床に置く。
 「そんな薄着で寝たらあかんで」
 「ありがと。もう平気」
  毛布を拾い上げて肩に掛け直そうとしてくれた腕を、そっと押し止める。
 「忍足は? 寒くないの?」
 「おん。おまえみたいに薄着ちゃうし」
  間近で落とされた声が耳から滑り込んで躰内に染み渡っていった。
  低く心地良い、慈郎の好きな、声。
  その体温をもっと感じたくて、ぎゅう、と躰を押し付けると、
 「寝起きのジロー、ほんまぬくいなぁ」
  小さな子供をあやすような顔で忍足が笑った。
  違えよバカ、と何やら泣きたいような腹立たしいような気分で慈郎は忍足の肩に額を押し付け
 る。今すぐその眼鏡を毟り取って唇を塞いでやりたいと思った。
  そんな慈郎の想いなど余所に、忍足はいつもと変わらぬ表情で床から本を拾い上げると栞の挟
 んである頁を開いた。
 「ねえ今日の昼休み、跡部と何話してたの?」
 「ん?」
  視線を手元に落としたまま、忍足が間延びした声を慈郎に返す。パラリ、と頁が捲られた。
  彼は読書にしても映画鑑賞にしてもすぐに没頭してしまう性質なので、こうした反応には慣れ
 ている。今慈郎の胸を占める苛立ちはそんなことに対するものではなく、昼休みに感じていたも
 のがぶり返したもので。
 「一緒にメシ食おうと思って教室行ったらさ、何か話があるとかで跡部に呼ばれて出てったって
 ガッくんがむくれてた」
 「ああ、大したことちゃうねんけど…」
 「違うけど、何だよ?」
 「んー」
  言い淀まれて思わず眉間に皺を寄せて低い声で訊ねると、忍足は困ったようにチラリと視線を
 こちらへ向けて、シングルスのことで、とボソリと呟いた。
 「せやから、岳人にはあんま聞かせたくなかってん。そんだけ」
  言い淀んだことよりもその困った顔よりも何より、そう告げた時の声の優しい響きにカッと腹
 の底が熱くなった。何がそんだけだバカ、ともう何度目かわからない悪態を心の中でつく。
 「なに忍足、シングルスに転向すんの?」
 「いや、そんなつもりはないで。俺、岳人とのコンビ気に入っとるし。そりゃ監督命令やったら
 やらなしゃーないけど、今のところまだそんな話も出とらんしな。あくまで跡部の個人的意見ちゅ
 うかアドバイスちゅうか」
  不機嫌さが隠しきれていない声が出てしまったのに忍足は特別気にした様子もなく、
 「跡部には前からちょくちょく言われててん」
  事も無げにのんびりとそう告げて、視線を本の上に戻した。
  酷い男だ、と心底思う。
  無意識なのか本の縁に沿って長い指が何度も音も無く紙面を這うのを、見つめた。
  酷い男だ。
 「そんなの俺、初耳だけど」
 「そうか? 言わへんかったっけ?」
  予想通りの長閑な声が返ってきて、慈郎は返事をせずに床に丸まっていた毛布を胸元まで引っ
 ぱり上げた。
  コーヒーの染みを指でなぞりながら、目を閉じる。
  眠気が訪れてくれないことなど最初からわかっていて、頁を捲る乾いた音を三度聞いたところ
 で諦めて目蓋を持ち上げた。
  そろり、と視線を隣に戻すと、緩く睫毛を伏せて文字を追う横顔を見つめた。
  不座蹴た眼鏡が邪魔をして普段はあまり目立たないが、忍足はとても綺麗な顔をしている、と
 思う。
  レンズの向こうでゆっくりと睫毛が上下する度に、胸の奥が震えた。
 「──忍足なんか、」
  胸が、痛い。
 「早くよれよれでぶっさいくなおっさんになっちゃえばいいんだ」
  呟いて、立てた膝に乗せた腕に額を埋めた。
  膝を包む柔らかな毛布は暖かく、微かに忍足の匂いがするような気がして。
  何だか泣きたくなって、少し困った。
 「な、何なん? それ何の呪いやの? 縁起でもないこと言うなや」
  本から顔を上げた忍足が怪訝そうにこちらを見ているのを気配で感じたが、見つめ返してなん
 かやるものか、とそのまま背を丸める。
 「だってそしたら、」
 「そしたら何やねん」
  そしたら、そんな忍足を愛してやる奴なんか俺くらいしかいないから忍足は一生俺の側にいる
 しかなくなるんだ。
 「うっせーよ、バーカ」
  言えなかった言葉の代わりにくぐもった声で呟くと、バカ言うな、と頭を小突かれた。
  胸の奥が熱くて、苦しくて。
  声が少し震えてしまったことに、忍足が気付かなければいいと祈った。
 「もうおまえほんま意味わからん」
  浅い溜息が溢されて、本の頁がパラリと捲られた。指先がまた紙面を這っているのかは、顔を
 伏せている慈郎にはわからない。
  エアコンが吐き出す暖かな空気。柔らかな毛布。コーヒーの染み。
  彼の隣は、こんなにも温かくて。
 「じろう」
  ふいに伸ばされた手が慈郎の髪をゆっくりと撫でる。
  そんな優しい声で、名前を呼ばないで欲しかった。
 「もうすぐ終わるからちょっとだけ待っとってな。そしたら何かメシ、作ったるから」
  優しい声が、優しい手が、髪を撫でる。
  やはり少しだけ泣きたくなって、慈郎は頬を腕の中へと深く深く埋めた。
  ゆっくりと、息を吐く。


  離れていこうとした手を素早く捕らえると、そのまま強く引き寄せた。










  fin.





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  (20060116)



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