返事をきかせて





  目の前の頬杖をついて睫毛を伏せている涼しい顔を見ていると、利央は自分の存在など忘れ去
 られてしまっているのではないかと少しだけ不安になった。
 「…できたよ?」
  どういう言い方をしたところで結果は変わらないとわかってはいたが、先程から繰り返し口に
 しているその言葉を今度は恐る恐る許しを請うように言ってみる。
  ん、と短く返事をしてようやく手元の雑誌から顔を上げた準太の視線が利央の胸元へと移り、
 「はーい不合格」
  予想通りというかむしろ違う反応を返してくれる時が本当にやって来るのだろうかと本気で心
 配になるほど素っ気無く、彼はチラリと見ただけですぐに雑誌へと視線を戻して抑揚のない声で
 そう告げた。
 「うう…」
  長い指でパラリと頁を捲る準太を恨めし気に見遣りながら、低く呻いて結んだばかりのネクタ
 イを解く。
  もともと得意ではないとは云え、これだけ慎重にやればいつもならもう少しマシな出来になっ
 ているところだった。それがどうにも上手く結べないのは、やはりこの状況のせいに他ならなく
 て。
  誰もいない部室に準太と二人きりだなんて、動揺するなと言う方が無理な話なのだ。
  そもそもせっかくその二人きりの貴重な時間に何故自分はこんなことをしているのだろうかと、
 利央は溜息を零したい気分でネクタイを引っ張った。
  朝練で会った時に、河合に鍵を借りたから部室で昼食をとろうと誘ったのは準太の方だった。
 もちろん利央に異存などあるはずもなく、終業のチャイムと同時に教室を飛び出してきたという
 わけなのだが。
 「ねえ、準さん」
 「ん」
 「腹へったんスけど」
 「だろうな」
 「……」
 「だからちゃんと結べるようになったら食っていいって言ってんだろ」
 「練習なら後でするからさ、今じゃなくても…」
 「ダーメ。おまえ前からそう言っててちっともできるようになってねーじゃん。後輩指導も先輩
 としての大事な役目なの。ほら、いいからさっさとやれよ」
 「……」
  一緒に居られる貴重な時間に恋人同士ならもっと他にすることがあるんじゃないの、と言って
 やりたいところだったがもちろん言えるわけもなかった。
  恋人同士、という言葉が胸の中で燻る。おさまりの悪い欠片のように、それは利央の心に鈍い
 痛みに似た影を落とした。
  キスは二回した。
  どちらも抵抗はされなかった。
  交わした言葉も拒まれなかった口付けも確かな証拠として存在するのにそれでもまだ、不安は
 消えてくれない。
  求めるのはいつも、自分ばかりで。
  急にネクタイ結びの練習などと言い出したのだって、今朝河合に結び方がだらしないと注意さ
 れたのを聞いていたからだろうし、わざわざこんな所へ誘ったのも単なる気紛れでしかないのか
 もしれない。
 「おせーよ。できた?」
 「いや、まだ。ちょっと待って」
  考えに耽るあまりつい留守になっていた手を慌てて動かしながら、ちらりと準太の襟元のネク
 タイへと視線を走らせた。
  彼もどちらかと言うとそこそこ着崩すタイプなので、ボタンを外して緩めた襟元にやはり緩め
 たネクタイを下げている。それでも利央のようにだらしなく見えないのは、元の結び方が綺麗だ
 からなのだろう。それとも、このストイックな顔立ちのせいか。
  あんなにも重い球を放つことができるくせに投手にしては細い彼の指が器用に動く様を、頭に
 思い浮かべてみた。
 「──あのさ準さん、こう手を添えて教えてくれるとかそういうのはないわけ?」
 「うん、ないわけ」
  淡い期待を胸に問いかけてみたが、視線が上がることすらなく即答されガクリと肩が落ちた。
 そんな利央の様子などまるで気にする風もなく、準太は頬杖をついて誰かが忘れていった雑誌を
 つまらなそうに捲っている。
  腹をすかせている利央のことなどお構いなしに、彼は既にコロッケパンも焼そばパンも玉子サ
 ンドも食べ尽くし、利央が食後に食べようと楽しみにしていたエクレアの袋を勝手に開けて食べ
 始めている始末で。
 「全然ダメ。はい、やり直し」
  唇についたクリームを赤い舌が嘗めるのを盗み見していたら、また失敗。
 「うう…準さん、せめて手本見せてよ手本! ねえお願い!」
  縋るような思いで両手を合わせると、少しの沈黙の後に短い溜息が返された。
 「ったく仕方ねーなぁ。一回だけだからな」
  シュル、と軽い音を立ててネクタイを引き抜くと、準太は外していたシャツのボタンを上まで
 留めてからもう一度ネクタイを襟元に掛け直した。
 「だから、ここをこうやって、」
  淡々と説明しながら、彼の白い指先が器用に動いてするすると結び目を作っていく。一連の動
 作の流れはひどく滑らかで、まるで魔法のようだと思いながら無意識に呼吸を止めたまま見つめ
 た。
  形の良い結び目が瞬く間に準太の襟元に現れ、
 「はい、手本終わり」
  その声に利央が我に返るのと同時に準太の指が作ったばかりの結び目に掛かり、シュッと手早
 く引いて弛ませた。シャツのボタンも無造作に外され、現れた胸元の白い肌が目に飛び込む。や
 めてほしい。
  いつもと同じ程度に緩められただけのことだったが、最初から見えているのと隠されていたも
 のを眼前で露にされるのとでは、全然違うのだ。
  この人のこういった無神経さは、本当にタチが悪い。
 「早く食わねーと昼休み終わっちまうぜ?」
  利央の心の葛藤になどまるで気付いていない様子で、準太は再び雑誌へと視線を落とすと食べ
 途中だったエクレアを手に取った。
  人の気も知らないで。
  腹立たしいやら本気で困ったやらで、鼓動がひどく煩く鳴り響く。
  早く静めなければと思ったその時ふと時計の針が視界に入って、げ、と内心で呟いた。
  彼に気を取られていたら一生終わらない。それこそ昼食だって食べ損ねてしまう、と利央は準
 太の姿を無理矢理頭の中から追い出して、無心に手を動かしネクタイを結んでいった。
  心臓の音に邪魔をされて上手く動かない指を叱咤しつつ、何とか結び終える。
 「…できた、けど」
  そろりと視線を向けて告げると、雑誌から顔を上げた準太が利央の襟元を首を傾けてじっと見
 つめた。
  ネクタイを見ているのだとわかっていても、勝手に鼓動が速まっていく。
 「んー…ま、オマケだな」
 「え!」
  落ち着かなく身動いだところへ漸く合格の言葉を貰えて、ホッと胸を撫で下ろした。
 「よかったー。ではいただきま…」
  これでやっと昼食にもありつけると喜び勇んでパンへと手を伸ばそうとしたその時、
 「利央」
  準太にチョイチョイと指先で呼ばれて何だろうと身を乗り出すと。
 「…っ!」
  グイといきなりネクタイを掴んで引き寄せられ、唇に柔らかな何かが押し当てられた。
  それが準太の唇であることを麻痺した頭が漸く認識した時には既に、彼の躰は引き寄せられた
 のと同じ唐突さで離れていった後だった。
 「……」
  ただ呆然と瞬きすら忘れて、熱の残る唇に指で触れる。
  初めての、準太からの。
  自分の心臓の音だけがひどく大きく耳の側で鳴り響いて、視界を揺らす。
 「……何だよ。迷惑だったわけ?」
  何も言えずに固まっている利央をじっと見つめた後、机に頬杖をついた準太が雑誌をめくりな
 がら不貞腐れたように訊ねてきた。
  凶悪だ。
  この人は、本当に。
  今更知らないとでも言うのだろうか。この鼓動の早さを。この、疼くような熱を。
 「な、迷惑なわけっ…」
  焦りと苛立ちの入り混じった衝動にまかせて抗議しかけたが、ふと準太の瞳の動きに気が付い
 て声を引っ込めた。
 「準さん」
 「……」
  やはり気のせいではなかったようで、呼び掛けたのに彼は一向に視線を合わそうとしない。
  心なしかその頬や耳が仄かに染まって見え、これは都合良く解釈してしまってもいいのだろう
 かと釣られて赤くなりながら利央は思った。
 「ねえ準さん、俺、」
 「わかったからさっさと食えよ」
  顔も上げずにぞんざいな口調で遮った準太の視線はまだ、先程から変わっていない同じページ
 の上に向けられたままで。
 「あのさ、食べ終わったらキャッチ、付き合ってよ」
  告げたかった言葉はもっと別のものだったが、込み上げてきた熱に邪魔をされてそんな言葉し
 か出てきてくれなかった。
  早鐘を打ち続けている鼓動を宥めようとしながら返事を待つと、
 「あー無理。俺、次、教室移動だから時間ねぇの」
  顔を上げずに、やはりひどくぞんざいに準太が告げた。
  がっがりはしたが予測の範囲内で、今更この程度でめげたりするような利央ではない。
  それでも時間が無いのならなんでわざわざこんな遠い部室まで、と文句の一つも言おうとして、
 利央はハッと息を呑んで口を噤んだ。
  なんだ。
  そんな簡単なことを、この人は。
 「…そのニヤニヤ笑い、さっさと引っ込めねーとイスごと蹴り倒すぞ」
  地を這うような声が投げられて、慌てて緩んだ口元を引き締める。
  準太からキスしてもらえるのなら人目があろうが無かろうがどこでだって大歓迎だと言いたかっ
 たが、本当に蹴り倒されそうなので止めておいた。
  今度、部室よりももっと近くて誰にも見られずにキスのできる場所を探しておこう。
  不機嫌そうに雑誌を捲る準太の頬はまだ仄かに赤く、ちゃんとエクレアが半分残されていること
 に気付いて、利央の口元がまただらしなく緩んだ。










  fin.





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  単に利央とキスがしたかった準太。(20060511)








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