| 乞う人 汗を吸ったユニフォームを着替えようとロッカールームに向かっていた榛名は、薄暗い廊下の 角を曲がったところでふと視界に入った男の姿に足を止めた。 自販機の明かりが煌々と照らす狭い通路の壁にもたれて気怠そうにコーヒーの缶を傾けている 制服姿のその男を見て、やっぱり来たか、と彼の来訪を自分が半ば予測していたことに気がつい た。 彼がここに居るのは偶然なんかではなく、他でもない自分のことをわざわざ待っていたのだと いうことも、見た瞬間にわかっていた。 島崎慎吾。 他校の人間の名前などほとんど憶えない自分が彼の名前もポジションまでもをしっかりと記憶 しているのは、当然、あのつれない誰かのせいで。 その名前を知るに至ったあまり面白くもない経緯を思い出して、榛名は目を眇めて島崎の姿を 見遣った。 缶を持った手をだらりと下げもう片方の手はポケットに無造作に突っ込んだまま、目を緩く伏 せて壁にもたれている。感情の読めないその大人びた横顔に、思わず舌打ちしたい気分になり眉 を顰めた。 現れた榛名の姿に気づいていないはずはないのに、こちらを見ようともしない。 声をかけるべきかとちらりと思ったが、そんな義理は無いとすぐに思い直して止めていた足を 再び前へと進めた。 島崎と自販機との間に残されたあまり広くない通り道を大股に通り過ぎようとした、その時。 ガンッ ふいに動いた足が自販機を音高く蹴った。 進路を塞ぐように伸ばされた足と、その持ち主を順に見遣る。 「…通れないんですけど?」 わざとゆっくりと声を投げると、漸く上げられた島崎の視線が榛名のそれと絡んだ。 「俺、非暴力主義なんだよね」 答える代わりに脈絡もなくそう言って、彼は唇の端を上げて笑った。 ──よく言うよ。 相変わらず行く手を塞いでいる目の前の足と彼の躯から滲んでくるその言葉とは裏腹の不穏な 気配に、榛名が思わず胸の内で毒づく。 こうして二人が今、個人としても団体の一員としても怪我や事件を避けなければならない立場 でなかったのなら、微塵も躊躇うことなく拳に訴える気でいることくらいその目を見ればわかる。 それだけのことを自分がしているという自覚はあった。だがもちろん、黙って殴られるつもり も毛頭なかったが。 ──…あの人は、そんなんじゃない。 ふいに、睫毛の先を震わせて小さく呟いた高瀬の声が耳の奥に甦った。 頑に榛名を拒みながら、常に瞳にたたえられていた強い意志を示す光が、その瞬間だけ脆く揺 れたのを確かに見た。 「人のモンに勝手に触んないでくれる?」 ゆったりと投げられた声にふと我に返り見遣ると、自販機から足を下ろした島崎が真直ぐにこ ちらを見ていた。 唇は笑みを形作っているが、やはり目は少しも笑っていない。 「何のことっスか?」 わざとらしくへらへらと笑って訊き返してやったが挑発に乗る気配はまるでなく、微かに目を 細められただけで終わってしまった。むしろ彼の精神に揺さぶりをかけられないことに、榛名自 身の苛々が募る。 先に余裕を無くしたら敗北を認めてしまうようで、榛名は彼にはわからないように強く指先を 握りしめた。 「おっと記憶力にも問題があるのかなー榛名クンは。随分と派手に痕なんかつけてくれたじゃねぇ の」 「ああ、はいはいそれね。あのキスマークのこと言ってんの?」 「他に何があるんだよ」 拒む手を掴んで無理矢理に高瀬の胸元につけた口付けの痕を思い出す。 彼の薄い皮膚にわざと濃い痕を残したのは、島崎に対する一種の宣戦布告のつもりでもあった。 「あるって言ったら? 島崎サン」 食えない男だ。 挑発するための声に苛立ちが混ざりそうになり、榛名は告げながら強張ったりしないよう慎重 に笑みを浮かべた。 目の前の揺るがない薄笑いをどうにかしてやりたくて、胸の奥がざらつく。 ──…あの人は、そんなんじゃない。 あの時、掠れた声でそう呟いた高瀬の瞳に浮かんでいたのは、深い諦めと焦燥だ。 隙だらけのくせに頑で、繊細な容姿をしながらやたらと自尊心の高い彼が見せたその剥き出し の感情に、一瞬腹の底を灼くような怒りを榛名は感じた。 そんなにまで痛みを伴う関係だというのなら島崎などさっさと捨てて自分の元へ落ちてくれば いいのだ。 自ら愛を乞うことすら、できないくせに。 力づくで全てを奪うこともできたのに途中で手を止めてしまったのは、結局のところ、彼が求 めているものが一つしかないのだということをその瞳にはっきりと見てしまったからなのだと思 う。 らしくない、とわざと腕の中から逃がしてやった高瀬を見遣りながら自嘲した。唇で胸元の肌 の甘さまで確かめておいて、途中で手放すなんて。 激しく身を灼いた怒りが単に嫉妬であるということを認めたくなくて、あの時榛名は立ち去る 高瀬の背を眺めながらそれ以上考えるのをやめた。 「無いね」 やはり微塵も揺るがぬ薄笑いに、新たな怒りが榛名の腹を静かに抉る。 食えない、男だ。 やはり強引に奪っておくべきだったと思いつつ、笑みを崩さずに片眉を上げて見据える。 「へえ、本当にそんだけで済んだと思ってんだ? あんな中途半端で止めたとでも? 随分とまぁ、 おめでたい人っスねぇ」 少しは狼狽えてみやがれと意味深な口振りで告げてみたが、 「思ってるよ」 またもやひどく落ち着いた答えが返された。顔色一つ変えぬまま、島崎の顎が少し上がり、唇 が動く。 「ご心配なく。ちゃんと自分で調べさせてもらったからね、」 フッ、とその笑みが深まった。 「体で」 「……」 ゆったりと続けられたその言葉に、榛名の口元から笑みが消えた。 悠然と微笑んでいる目の前の男と視線を合わせたまま、息が詰まるような暗くどろりとした感 情が胸を撫でていくのをただ感じていた。 ──…あの人は、そんなんじゃない。 「高瀬は、」 勝手に唇が動いた。 意志とは関係なく零された自分の声が、榛名の耳にどこか他人の声のように響いて冷えた床に 落ちる。 「アンタは高瀬のこと、本気じゃないって思ってるぜ」 何故そんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。 ただ耳に残されていた高瀬の声と彼の震えていた目蓋の白さが、榛名の中の何かを急かしたの だった。 だが。 「……」 一度も揺らがなかった目の前の瞳が微かに見張られたのを見て、榛名は思わず息を飲んで見つ めた。 痛みを堪えるような揺らぎが確かに過ったその瞳が一瞬伏せられ、またすぐにこちらへと向き 直る。 「──ウチのお姫さんは少々、自惚れが足りなくてね」 立ち消えた笑みを唇に戻して呟いた島崎の声にはどこか自嘲めいた苦い響きが滲んでいて、漸 く彼の神経に爪を立てることに成功したのだと悟った。 それなのに。 少しも勝った気はしなかった。 胸の奥を埋める澱はむしろ、重さを増して。 「榛名」 元の揺るぎのない声で名を呼ばれ、真直ぐに見返す。 「今度だけは大目に見てやるけど、」 島崎の腕が動いて、空き缶が綺麗に放物線を描いてゴミ箱の中へと落ちた。 ガコン、と鈍い音が響いたのと同時に驚くほど素早い動作でユニフォームの胸元を掴まれ、乱 暴に引き寄せられる。 近付いた瞳が、すっと細められた。 冷ややかな眼差しの奥に、ゾクリとするほどの熱と。 「悪いけど…俺はそんなに優しくないぜ?」 低い、声だった。 掴んだ時と同じ唐突さで躯が離される。 「──次は、ねぇぞ」 通り過ぎながら一瞬だけ足を止めた島崎の唇が落としていったその声に、息を詰める。 まさか。この、自分が。 歩き去る背中を眺めながら、漸く自分が島崎に気おされたのだと理解した。体格だけならおそ らく自分の方が上である相手に、一瞬とは云え、完全に気おされた。 屈辱感と、それとは別の苦々しい想いが込み上げてきて胸を浸す。 島崎の姿が廊下の角へ消えたのを見届けてから、細く息を吐き出した。 「…なんだ」 首の後ろへ手を当てて呟き、薄汚れた天井を眺める。 「ちゃんと愛されてんじゃん、高瀬」 手はそのままにゆるりと下を向いて、もう一度細く長く息を吐いた。ポツリと呟いたその言葉 と胸を湿らせる感情の示すものを、緩く伏せた目蓋の裏に返す。 ふいに、沸々と可笑しさが込み上げてきてクックッと喉を鳴らした。 「ふうん…面白いじゃねぇの」 口元に手を遣って小さな笑い声を漏らしながら呟いた声が、自然と弾む。 高瀬の勝気な眼差しと儚い睫毛の震えを思い出しながら、島崎が消えて行った廊下の先を見据 えた。 頭の芯は冷えていくのに、躯の内側に熱が灯る。 マウンドに立った時の高揚感と、どこか似ていると思った。 「こりゃ思ったより手強そうだな」 ──もちろん、退くつもりはないけど。 もう一度声をたてて笑うと、榛名は鼻歌を歌いながらロッカールームへと向かって歩き出した。 fin. --------------------------------------------- 準太は自尊心の高さと心の脆さとのバランスが複雑に 揺れている子だといい。愛されたいのに、乞えない。 (20050410) |
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