微睡みと在り処





  まずいな、と重さが増していく体をフェンスに預けながら仁王はそっと溜息を零した。
  吐く息が心なしか熱い。
  朝から感じていた違和感は、放課後の今となっては完全に無視できないものへと変わっていた。
 頭の芯が麻痺したように重たい熱に包まれている。
  集合の合図に体を起こすと、手足のダルさを実感した。
  もう一度小さく息を吐く。
  グラウンドの片隅に集まっていく部員達の姿を眺めながら、仁王もゆっくりと同じ場所へと向
 かった。
  明日は休みであるし、取りあえずあと数時間くらい何とかなるだろう。
  仮病を使ってサボることなら何でもないのに、こうして実際に体調が悪いと言い出せないなん
 て、面倒な性分だ。
  真田に自己管理ができていないと説教されるのも面倒臭いし、何より人から心配されるのがひ
 どく苦手だった。それに今日は柳生と今度の試合に向けて新しいフォーメーションの練習をする
 約束になっている。真面目に調整を重ねている彼の努力に水を差すような真似もできれば避けた
 かった。
  額にいやな汗が滲むのを感じてポロシャツの袖で拭う。
  ふと顔を上げた拍子に、グラウンドの反対側から歩いてきたブン太と目が合った。彼は眉根を
 寄せ、大きな目を僅かに細めるようにして仁王を見つめていた。
  後ろめたさに似た思いが胸を過る。
  咄嗟に作った薄い笑みを唇に浮かべたまま軽く手を上げると、ブン太の眉間の皺が深まったよ
 うに見えた。
  これだけの距離だ。気のせいだろう。
  無意識に自分にそう言い聞かせながら、気がつくと彼から視線を逸らしていた。
 「仁王、急げ」
 「おう」
  肩越しに声をかけ、柳がすぐ横を走り抜けていった。通り過ぎる際に顔を合わせたが、別段何
 かに気づいた様子はない。
  大丈夫だ。
  ラケットを抱え直すと、仁王は少しだけ歩を早めた。



  集まった部員達の後ろの方に並ぶ。
  不規則に連なる頭の隙間から、真田の仏頂面が見えた。もちろん機嫌が悪いわけではないこと
 くらい知っている。いつも通りの光景だ。
  特別メニューでも言い渡されたらどうやって上手く逃れようかと考えていたその時、
 「…わっ!」
  ふいに上がった声と鈍い音に驚き視線を向けると、いつの間にか隣に来ていたブン太が尻餅を
 ついていた。
 「痛ッテー」
  足首を押さえて呻く彼の側には誰かが片付け忘れたのかテニスボールが一つ転がっている。
 「おい、大丈夫か?」
  事態を悟って焦り、屈み込んで訊ねるとブン太が痛みを堪えるように顔をしかめた。
 「マズイ、捻った」
  こうして些細なことで負った怪我が、思わぬ大きな故障へと繋がることが多々ある。そんなこ
 とはここにいる誰もが知っており、もちろん仁王も例外ではない。
  心臓に冷水を浴びせられたような気がした。
 「どうした丸井?」
  人垣の向こうから真田のよく響く声が投げてよこされた。部員達の視線がこちらに集まりざわ
 めき出す。
 「悪い、ボール踏んでちょっと足捻っちまった。大丈夫だけど一応保健室行ってくるわ」
  答えながら、よっ、と言って立ち上がったブン太の手が仁王の肩にかかった。
 「そういうわけなんでニオ、肩かして」
  いいとも悪いとも答える間もなく促され、足を少し引きずるようにして歩く彼を支えながら校
 舎へと向かう。
  二人の背後では部活が再開され、指示を出す真田の声が聞こえてきた。
  左肩の辺りで揺れている赤い髪が、時折、仁王の頬を撫でてくすぐったい。
  肩をかしているにしては体にかかる重みが少ない気がしたが、熱で感覚が鈍っているのかもし
 れないと思い直した。
 「痛むんか?」
  珍しく黙りこくっているブン太が気になり声をかけると、チラリと視線が上げられた。
 「バーカ」
  何故かひどく不機嫌そうに、彼が呟いた。





 「ええと、湿布湿布…」
  保険医の姿が見あたらず、仕方なく勝手に引き出しを開けようとしたその時、
 「んなもんいらねーよ」
  椅子に座って待っていると思っていたブン太の手がすっと伸びてきて、仁王の手を止めた。
 「それよりこっち」
  そう呟いたブン太は棚の中から体温計を取り出すと、そのまま仁王の手首を掴んで奥のベッド
 の方へと引っ張って行く。
  先程まで引きずっていたはずの足が荒い歩調で床を踏んでいくのを見て、唖然とした。
 「ブン太、おまえ足、」
 「あー? 足がどうしたって?」
  振り向きもせずに投げられた声が、一拍ほど遅れて脳に達した。
  不自然なテニスボール。支障なく床を踏む足。──体温計。
 「……」
  やられた。
 「おまえ詐欺師のくせに騙されやすすぎだっつーの。ほら、測れよ」
  仁王の思考を読んだようにそう告げたブン太の手が、手首から肩に移動した。押されるままに
 ベッドに座らされ、目の前に差し出された体温計とブン太の顔を交互に見遣る。
 「何だよ?」
 「…別に」
  訝しげに見返してきたブン太に、無愛想な声で応えた。
  努めて感情の伴わない動作で体温計を受け取り、服の中に滑らせた。目を僅かに伏せ、不必要
 な心配をさせられたことを怒っているという表情を意識して保つ。
  そうしていないと、胸の奥から溢れてきた何かに心ごと攫われてしまいそうだった。
  この喉の奥を詰まらせる感情が、単純な自作自演の嘘にまんまと引っ掛かったことへの悔しさ
 でもその嘘のタチの悪さへの怒りなんかでもないことくらい、とうにわかっていた。
  風邪がもたらすものとは種類の異なる熱が、じわりと体の内側に広がっていく。
  胸を締め付けるそれはひどく苦しくて、泣きたいほどに甘い。
  前髪を掬ってブン太の手が仁王の額に触れた。
 「やっぱり結構あるな。さっき手、熱かったから7度は超えてるだろうとは思ったけど」
  先程肩をかした際にブン太の腕に触れた時、彼が一瞬顔を顰めたのを思い出した。
  いつから気づいていたのだろう。
  額に意識が集中してしまいそうになりながらぼんやりと考える。触れるもっと前から仁王の不
 調に気づいていなければブン太はあんな真似をする必要がない。
  彼とはあんなに距離があったのに。柳にすら、気づかれずに済んだのに。
 「何で…」
  そこまで言って、仁王は口を閉ざした。いつからなのか訊きたかったのに、何故か出て来たの
 はその言葉だった。
  それでもブン太には伝わったのではないかと思い、そう思った自分に困惑する。熱に包まれ、
 頭の芯がグラグラした。
  ふいに、額に置かれていたブン太の手がすっと頬を撫でる。
  視線を上げた仁王を見て、彼が僅かに目を細めた。
 「俺まで騙せるわけねぇだろバーカ」
  唇の端を上げて、ブン太が鮮やかに笑った。
 「どうせおまえ、こういう時に帰れって言ってもきかねーんだろ?」
 「……」
 「部活終わったら迎えに来てやっからここで寝てろ」
  呆然と目を見張ったままブン太を見つめていたことに気がつき、慌てて視線を逸らした。
  まいったな、と思った。
  睫毛を伏せたまま、取り出した体温計を押し付けるようにしてブン太に渡す。
  まいったな、と思う。
  顔なんて、見れるわけがない。
  頬に上がってしまった熱を追いやろうと仁王は出来る限りの仏頂面を作った。
  ブン太が笑む気配を感じて、眉根を寄せたまま目線だけを上げる。
  案の定ニヤニヤとしながら仁王を見下ろしていたブン太の顔が、思い出したように体温計を見
 た瞬間みるみる歪んでいった。
 「あー」
 「…そのイヤそうな顔やめんしゃい」
 「誰のせいだよ!」
  言い返しながらブン太の体が慌てたようにカーテンの向こう側に消えていった。
  バタバタと何かを探し回る音が聞こえてくる。
 「こんな手の込んだことせんでも保健室くらい普通に連れてきたらええじゃろ」
  まだ残っている気恥ずかしさから逃れたくて、ベッドに腰掛けたままカーテンの先に向かって
 いつも通りの口調で声を投げた。
 「こうでもしないと平気なフリして部活を続けやがんだろーがオマエは!」
  すかさず返ってきた声と共に、戻ってきたブン太がベッドを囲むカーテンを捲って姿を現す。
 手には体温計に代わってアイスノンが握られていた。
 「枕は取った方がいいよな」
 「ん」
  毛布を捲ったブン太が枕を脇にどけてタオルを巻いたアイスノンをそこに置いた。ここまでき
 て逆らっても仕方がないので大人しくシューズを脱いでベッドに上がる。
  襟足で留めてある後ろ髪をほどこうとした瞬間、
 「ストップ」
  かけられたブン太の制止の声に手を止めた。
  何だろうと目線で問うと、ブン太が片足を乗り上げるようにしてベッドに上がってきた。その
 笑みの消えたひどく大人びた表情に、一瞬ドキリとする。
 「それ、俺の役目」
  音も無くブン太の手が伸びてきて、するりと髪をほどいた。
  項に触れた彼の指が放つ淡い熱と。
  解かれた髪が広がる感触と。
  何かに急き立てられるような、陶然とするような、不可解な気持ちが仁王の胸を這い上がった。
  鼓動が速まり、再び頬に別の熱が集まるのを感じて誤魔化すようにアイスノンに頭を沈める。
  熱のこもった後頭部にタオル越しに流れてくる冷気が心地良かった。
 「仁王」
  その声に、また鼓動が大きく鳴った。
  寄せられてきた彼の唇が触れる前に、急いで手でそれを拒む。
 「風邪、うつる」
  何とかそれだけ呟いた瞬間、二人の間を隔てていた仁王の手がブン太によって強引に取り去ら
 れた。
 「…ッ…」
  手首を掴まれたまま、唇を塞がれる。
  体温を溶かし合うような口付けに、熱を帯びた体が小さく震えた。
  優しい熱を落とした唇が、慈しむような甘噛みを残して静かに離れていく。
  伏せていた睫毛を持ち上げて見遣ると、ブン太は目を細めてフン、と鼻で笑った。
 「…早く行かんと、真田に怒られても知らんぜよ」
 「へいへい」
  無愛想に告げる仁王の毛布を直すブン太がニヤニヤと笑む。
 「つーかおまえも早く治さねーと真田に殺されるぜ?」
  ベッドを囲むカーテンも引き直して、悪戯をする子供のような顔で仁王の額に触れた。
 「じゃな。しっかり寝て、迎えに来るまでに治しておけよ」
  離れ際についでのように仁王の髪を指で梳き、ブン太がカーテンの向こうへと素早く消えた。
  肩越しに上げられた手の残像が白い布地に滲む。
  ドアの閉まる音が響いて、またすぐに静かになった。急にアイスノンの冷気が強まったように
 感じて身動ぐ。
 「…無茶言いよる」
  何ともなしに、彼が触れていった髪を摘み上げて眺めてみる。
  ふう、と小さく息が漏れた。
 「寝よ」
  ボソリと呟き、仁王は毛布を顎まで引っ張り上げて目を閉じた。










  fin.





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 (20040612)













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