ネット際の思惑





  ネットを挟んで向かい合った菊丸は、先刻頭にボールをぶつけられたことなど綺麗さっぱり忘
 れてしまったかのように晴れ渡った笑顔で手を差し出してきた。
  単に優勝の喜びがそうさせているのではないということに仁王は気づいていた。
  彼はきっと、忘れるのが上手なのだ。
  記憶から抜け落ちるのではなく、それはすぐに違う形へと変えられてしまうのだろうと思う。
 浄化、と呼ぶのには大げさな。彼にとってはもっと自然で他愛のない経路なのだ。たぶん。
  ブン太に少し似ている、と思った。
  僅かな躊躇いを悟られないよう薄い笑みを浮かべて菊丸に手を伸ばすと、すぐにしっかりと握
 り返された。迷いのない力が、指に、手の甲に、鮮やかに伝わってくる。
  唐突に、先ほど円陣を組んだ時に触れたブン太の手の温度が肌の上に甦った。
  互いに腕を掛け合い全国大会への真摯な思いを確認し合って離れる時、その熱い手は皆にはわ
 からぬよう一瞬だけぎゅっと仁王の手を握りしめて去っていった。
 「…仁王?」
  意識を他所へ巡らせていたことに勘付いた菊丸がパチパチと瞬きをした。あどけない顔をして
 中々に鋭い。その大きな瞳の奥に冴えた光を見つけて、ますます誰かの姿と重なった。
  遠くを彷徨っていた意識を引き戻して目の前の瞳に向き合った。何の躊躇もなくしっかりと握
 られたままでいる手から、力が抜けそうになる。
  悪かったな、とか、もう痛みはないのか、等いくつか言葉が頭の中を過りはしたが、どれもこ
 れも自分の性には合いそうになかった。
  一瞬だけ視線を足下へ落とした後、ふと思い付いて仁王は上目遣いに菊丸を見遣った。唇の端
 を持ち上げ、艶やかな笑みを浮かべる。
 「菊丸。手の握り方、なんかやらしい」
 「!」
  目を細めてゆったりと微笑むと、菊丸が弾かれたように手を離した。
  隣で穏やかに握手を交わしていた柳生と不二がパッとこちらを振り返る。
 「なっ…! ちょ、誤解だって! 誤解…!」
  両手を振って慌てふためく菊丸に、ククッと思わず笑い声が漏れた。必死になって否定してい
 るくせに頬が赤く染まっている。
  素直な反応が可笑しくて追い討ちをかける台詞を投げてやろうとした時、菊丸の視線がチラリ
 と横へ流れたことに気がついた。
  何となく引っ掛かるものを感じて彼の視線の先を追うと、僅かに眉を顰めた不二の顔が映った。
 試合中やその他の時にも不二が眉根を寄せるところは何回か見ていたが、それとは別のものだと
 直感する。普通なら見過ごしてしまう程度の、ごく僅かな変化。
  ──ああ、なるほどね。
  こういう勘は外さない自信があった。
  晴れやかな笑いが沸々と込み上げてきてもう一度笑った。
  すぐに菊丸から視線を戻した不二が、やけににっこりと微笑んで柳生の手を握り返す。
  青学の天才も案外、子供らしい。
  何とも微笑ましい二人にクスクスと笑みを零しながら、仁王はチラリと柳生のさらに向こう側
 へと視線を走らせた。
  菊丸よりさらに鮮やかな、赤い髪。
  青学の二年生と握手を交わしながら、彼はいつも通りの少し挑戦的な笑みを浮かべて何やら話
 し込んでいる。
  柳生でさえ、菊丸を一瞬睨んだというのに。
 「…気がつきもせんのな」
  皆には聞こえないようにボソリと呟いて、仁王は心の中で不貞腐れた言葉を思い付く限りに並
 べ立ててやった。
 「いや、本当にやらしかよ。案外手慣れとるんね」
 「…っ…!」
  わざと意味深な笑みを浮かべて告げ、期待通りの反応を示す目の前の可愛らしい二人をぼんや
 りと眺めながら、一番子供なのはきっと自分だと仁王は思った。










  fin.





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 (20040831)













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