| 月鏡夜曲 質量のある熱気の粒子がシャツから出ている素肌に纏わり付く。 だがその熱のこもった空気にも微かに透明さが帯び始めてきているのを感じて、ああもう夏も 終わりなのだと菊丸は思った。 それでもこうして藍色の空に星が散らばる時刻になってもまだ、少し動いただけで背中にじわ りと汗が滲む。 「不二、暑くないの?」 隣を歩く不二の涼やかな横顔を眺めて思わず訊ねると、 「暑いよ?」 きょとん、と至って不思議そうに返されてしまい一瞬言葉に詰まった。彼の外灯の明かりに浮 かぶ滑らかな頬も制服の半袖シャツから伸びる細い腕も、毎日テニスコートの上で真夏の太陽に 晒されていたとは思えないほど、白い。 歩調に合わせてさらさらと揺れる色素の薄い髪を見ても、やはり暑さなどまるで遠いものであ るように思えた。 「でも、汗とか全然かいてないみたいだし」 見つめられて騒ぎ出した鼓動につられて少し口早に告げると、不二は可笑しそうにくすりと微 笑った。 「そんなことないよ、ほら」 言いながらくるりと背を向けた不二の指が、後髪を束ねて持ち上げる。露になった項には、柔 らかそうな後れ毛がしっとりと貼り付いていた。 その滑らかな白い肌に、菊丸の呼吸が止まる。 「…ああ、うん。ほんとだ」 カラカラに乾いて掠れてしまった声をどうにか押し出すと、それは生暖かい夜風に攫われてす ぐに消えていった。 「暑いけど、風も出てきたし昼間よりは随分マシだよね」 何事もなかったように髪を戻して肌を撫でる風に目を細める不二の横顔には先程の吸い寄せら れるような色香は既に無く、代わりに少年らしい硬質な美しさが薄明かりの中に静かに浮かんで いた。 その横顔から視線を外し、体内に灯った熱を逃がすようにそっと息を吐く。 「もう夏も終わりのはずなのに」 菊丸の吐息に重なってポツリと呟かれた不二の声は聞き逃してしまいそうなほどひどく密やか で、言葉とは裏腹に過ぎ行く夏を惜しむような響きがそこにはあった。 「夏が終わるの、寂しい?」 「そうだね…どうかな…」 肯定とも否定ともつかない答えを返して、不二がゆっくりと睫毛を上下させる。 不二と出会って、二度目の夏だ。 昨年の今頃は彼とはまだこれほど親しくもなく、こんな感情ももちろん、知らなかった。 彼に抱く想いが友情という枠を超えてしまったのがいつのことだったのか、今ではもう思い出 せない。 夏が終わるのを惜しんでいるのはきっと、この自分の方なのだと思う。 逸る鼓動。焦がれる夜の苦しさ。罪悪感。 眩暈を覚える程の、甘やかな痛み。 親友として抱いてはならないはずのこの感情は、膨らみ続けるまま菊丸の胸を疼かせ、時折鋭 い焦躁となって心に爪を立てた。 どうしたらいいのか。どうしたいのか。 どうする、べきなのか。 彼の隣の場所を失うのが怖くて、答えはいつも少し離れたところで揺れていた。 それでも夏の間に告げてしまおうと決意した想いは、風に夏の終わりを含ませる今となっても まだこうして菊丸の中に留まっている。 伝えることも、だが、隠しきることもできずに。 「ねえ、プール行こうよ」 「プール? 今から?」 「そう今から」 目を丸くした不二に、にっこりと笑って答える。 菊丸の気持ちになどとうに気付いているのに、こうして素知らぬ顔で変わらぬ距離を保ち続け てくれている彼はこの上なく優しく、そして少し、ずるい。 「こんな時間にどこで?」 「学校」 「……」 「行こう」 呆れ顔の不二の手を勝手に握って歩き出す。 指が触れ合った瞬間に痺れるような熱が背を這い上がったが、そのまま男にしては華奢な彼の 手をしっかりと握り込んだ。 鼓動が煩く鳴り響き、胸を押し上げて痛い。 一番ずるいのはもちろん、この自分だ。 不二は一瞬ビクリと小さく躰を震わせたが、その手を振り解くことはなかった。 繋いだ指から緩やかな体温が流れ込み、肌の下で混じり合って鼓動を速める。 「英二」 「ん?」 「何で急に、プールなんか」 「うーん…別に」 「別に?」 「もう夏も終わりだなって思って」 「何それ」 呟いて、不二がくすりと微笑った。 外灯に淡く光るアスファルトが二人分の足音を静かに夜気に投げ入れる。 何故急にプールに入りたくなったのか自分でもわからなかった。本当は何だってよかった。少 しでも長く彼と共にいられるのなら、何だって。 部活が終わって帰路についてからもどうしても別れ難く、こんな時間になるまで引っ張り回し てしまったというのにまだこの手を離す気になれなかった。 他愛のないおしゃべりは続き、いつもの笑顔を向けながらも心臓は忙しなく脈を打つ。 歩調を緩めて並んだ不二をそっと見遣ると彼もまた菊丸へと視線を上げ、頬が僅かに火照るの を感じて繋いだ手が熱く湿った。 どれだけ笑みを重ねても肝心なことなど何一つ言葉になって出てきてはくれなくて、絡めた指 の温かさだけが素直に心を伝えていた。 裏門を乗り越えて入り、植え込みの横の薄暗い道を進む。 歩きながら今はもう明かりの消えたテニスコートの方をちらりと振り返り、顔を見合わせて小 さく笑った。 「さすがにもう誰もいないね」 「うん。部室も電気消えてる」 夜の学校はひどく静かで、二人とも自然と囁き声になっていてまた少し笑った。 緊張、とは似ていたがどこか異なる、張り詰めたような息苦しさが胸を締め付けていた。不二 はどうだろうかと横目に隣を見遣ったが、睫毛の影が色濃く落とされたその白い頬から感情を読 み取ることはできなかった。 肩から下ろしたテニスバッグを木陰に残して、どちらからともなくプールサイドを囲むフェン スに手をかける。 よっ、と小さく呟いて攀じ登ると、金属の軋む音が木の葉のざわめきに重なって夜気を震わせ た。 ぐるりと囲む鈍色のフェンスは思ったよりも高さがあったが菊丸からしてみたらむしろ物足り ないくらいで、軽々と頂上まで上るとまだ高い位置からふわりと中へと飛び降りた。 ザッとシューズの底を軽く鳴らして乾いたプールサイドへと着地する。 ふと、一緒に上り始めたはずの不二が後に続かないことに気がついて後ろを振り仰ぐと、彼は まだフェンスを上る途中で動きを止めてこちらをじっと見ていた。 どこかぼんやりとした、だが息を詰めたような顔で瞬きもせずに菊丸を見つめている。 「不二? どうかした?」 高いと言っても彼が臆するような高さでもなかったし、今さらプールに侵入するのを躊躇うよ うな性分でもない。静かに訊ねると、不二はハッと短く息を吸って忙しなく何度か睫毛を上下さ せてから、なんでもない、とひどく小さな声で呟いた。 彼の細い体はすぐにフェンスを乗り越え、菊丸から三歩分ほど離れたところに降り立った。 どうかしたのかともう一度同じ問いを投げようとして、開きかけた唇がそのまま止まる。 乱れた髪を手で直しながら菊丸の視線から逃れるように遠くの校舎を仰ぎ見ている不二の頬が、 仄かに赤く染まっていた。 「何、もしかして俺に見蕩れちゃった?」 ざわざわと騒ぎ出した心を落ち着かせようとわざと軽い口調で冗談を口にしてみたら、 「……」 横向いたままの不二の頬の朱がサッと深まった。 「…なーんてね。そういや俺、夜のプールって入んの初めてかも」 それに気付かなかった振りをして視線を逸らしながら明るい声を投げ、菊丸は屈み込んでシュ ーズの紐を解いた。脱いだそれらを片方ずつ両手にぶら下げてプールサイドを歩く。 高鳴る鼓動以外、何も聞こえない。 裸足の足裏が乾いた灰色の地面を踏む感触が心地良かったが、胸を押し上げるような苦しさが 全ての感覚を攫い麻痺させていた。 半周ほどしたところでシューズを片隅へと放り、シャツに手をかける。 「ねえ不二、早く脱いで泳ご…」 パシャン。 ふいに上がった水音に、語尾が掻き消された。 不二に背を向けたままボタンを外していた手を止め、音がした方へと首を巡らせた菊丸の動き がぴたりと止まった。 しん、と一瞬、鼓動が静まる。 振り返ったその先に、不二の姿はなかった。 「!」 彼が佇んでいたはずの場所には、宵闇を佩いた濃い灰色の地面がただ静かに木の葉の影を映し ているだけで。 先程の水音が耳に返り、声も出せぬまま弾かれたように水面へと視線を移した。 月光と深い闇が混じり合って揺れる波間を凝視する。 全てを飲み込んで静寂に変えてしまいそうなその底で、白いシャツがゆらりと揺らめくのが見 えて菊丸の心臓が跳ね上がった。 「不…!」 声が喉に引っ掛かって悲鳴にも似た息が漏れる。 だが菊丸が水際に駆け寄るのとほぼ同時に、暗く凪いだ水面の下から水飛沫を上げて不二の白 い顔が現れた。夜気の中へ深く息を吐いた彼の頭から滴る大粒の雫が、いくつも溢れ落ちては波 立った水面へと還っていく。 水を含んで色を濃くした髪が重たく額に貼り付いていて、どこか緩慢な仕草で彼の指がそれを 払った。 声も無く見つめる菊丸の姿に気付いた彼はゆっくりと唇を開きかけてそのまま閉ざし、 「冷たくて、気持ちいいよ?」 一度目を伏せてからそう言って困ったように少し笑った。 胸に熱いものがさっと広がる。 呼吸を奪ったその熱は菊丸を追い立て、脱ぎかけていたシャツもそのままにプールへと飛び込 んだ。濡れた衣服の重さも忘れてザブザブと水を掻き分けるようにして歩み寄り、手を伸ばせば すぐに触れてしまいそうな距離で止まる。 「どうして、こんな…」 肩を上下させて乱れた息を整えながら見据えると、 「靴なら脱いだよ」 不二は予想に反して何事も無かったようなケロリとした顔でそう言った。 「俺だって脱いでるよ」 思わずまともに言い返してしまってからすぐに、いやそうではなくて、と我に返る。 水滴の落ちてくる前髪を鬱陶しそうに掻き上げる不二の表情はやはりいつものものと変わらず、 つい先程確かに感じたと思った不安定な揺らぎはどこにも残されていなかった。 あんなにも頼りなく、微笑んだくせに。 再び唇を開いてみたものの目の前の平静な表情が告げるべき言葉を迷わせ、何とも言えない痛 みがチリチリと残り火のように躰の奥で閃いた。 「こういう無茶するの、俺の役割じゃん」 ようやく掠れた声でそれだけ呟くと、不二はゆっくりと瞬きを一つしてから静かに微笑った。 「…うん、そうだね」 それは寸分の隙もなく整えられた、体温を感じさせない美しい微笑みで。 そんな顔を、しないで欲しい。 近付いた分だけ遠く離されてしまったような気がして、焦燥感に似た痛みが胸を灼いた。 彼がその整いすぎた微笑みの下に押し隠してしまったものが何であったのか知りたくて、それ なのに視線を水面へと落としたその仄白い目蓋をこうしてただ黙ったまま見つめていることしか できなかった。 濡れたシャツが貼り付いて透ける肌は艶かしく、だがどこか痛ましくも思えて。 「不二、」 無意識に唇から名が溢れたその時、濡れた髪から流れた雫が目の前の白い頬を伝い落ちるのを 見て思わず息を呑む。ほんの一瞬だけ、泣いているのかと思った。 手の甲で濡れた頬を無造作に拭った不二が菊丸の視線に気づいて顔を上げ、悪戯を見つかった 子供のような顔でそっと微笑った。 今度のそれはひどく無防備な微笑い方で、彼を覆っていた見えない膜が月明かりの中へと溶け て消える。 「馬鹿だな英二、服どうすんの? そんな格好で帰ったら家の人びっくりするよ?」 微かに吐息が混じるような不二の柔らかな声が、菊丸の躰内へと染み込み緩やかに体温を上げ た。 闇を吸い込んで揺れている水面で、金色の月が欠片となってちらちらと光を放つ。 その光は不二の瞳にも映り、波の動きに合わせて形を変えながら透明な熱を揺らした。 心臓が、痛い。 彼の滑らかな額に貼り付いた髪を梳こうと無意識に伸ばしかけて止めた手を、強く握りしめて 静かに下ろす。 かつてこの髪に何の動揺も無く触れることができていたなんて、信じられないと思った。 とても、信じられない。 「そんなの不二だって一緒じゃん」 疼くような痛みを無視して何とかいつも通りの顔を作り、どうすんの、と不貞腐れたように訊 ねる。 「僕は英二のせいにするから大丈夫」 「な、不二ひどい!」 さも当然だという顔で返されて抗議の声を上げると、髪を掻き上げながら不二の視線が波間の 月をゆっくりとなぞった。 「──うん、酷いよ。知らなかった?」 菊丸へと視線を戻して、ふいに声からふざけた調子を消して彼は静かにそう告げた。 そのまま再び視線を落とし、ひっそりと微笑む。 淡く光る白い肌。月明かり。 冷えた、仄紅い唇。 金色の光の下で睫毛を伏せて密やかに微笑む彼は、息を呑むほど、綺麗で。 「ねえ、英二」 小さな声が、煩く木霊する鼓動の音を縫って耳に届いた。 微かな水音と共に伸ばされた白い手が、菊丸のシャツを掴む。濡れた布越しに、彼の緩やかな 体温が肌に滲んだ。 「夏が、終わるよ」 呟かれた声が湖面に広がる水紋のように胸の奥に落ちて静かに響き、呼吸を奪う。 シャツを掴む不二の手が、微かに震えていた。 衝動のままに引き寄せた濡れた体は冷たく、だがその肌の奥は滑らかに温かくて。 抱き締めた薄い肩に頬を埋め、好きだ、と呟いた菊丸の唇もまた、微かに震えた。 fin. ---------------------------------------------- (20051019) |
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