| 夜の片隅 街灯に照らされた道を行く足が、自然と速度を緩めていく。 いつもの角を曲がると、シャッターの降りたケーキ屋の前のガードレールに腰掛けていた人影 が足音に気付いて顔を上げた。 目が合った瞬間には安堵の表情を浮かべたくせに、すぐにそれを引っ込めた菊丸の視線が逸ら される。 「…来ないかと思った」 ぶらぶらと宙を蹴る足先を見つめたまま素っ気なく投げられたその呟きに、彼に会ったら告げ ようと散々考えてきた言葉たちがどこかへ溶けるように消えていくのがわかった。 「そっちこそ」 同じように不二も淡々とした声で返して、フイと顔を背ける。 こんなつもりじゃなかったのにと思ってみても既に遅く、気まずさは夜気に重たく満ちて胸を 塞いだ。 菊丸と口をきくのは五日ぶりのことだった。 些細なことで喧嘩をして別れた後、互いに意地をはって連絡も取り合うことなく今日に至って いる。 確かクラスの女子から冬休みに遊びに行こうと誘われたことが喧嘩のそもそもの発端だった気 がするが、それがどうしてこのような形になったのかはよく思い出せなかった。売り言葉に買い 言葉でこじれにこじれた結果なのだが、詳しいことがほとんど記憶に残らないほどどうでもいい、 くだらないものだったということだけは確かだ。 せっかく仲直りしようと思って来たのに。 相変わらず菊丸は黙ったままこちらを見ようともせず、そうかと云って不二の方から歩み寄る にはタイミングを逸していた。チリチリと湧く反発心が素直になるのを妨げてもいて。 何もそんな態度を取らなくたっていいじゃないか、と自分のことは棚に上げて思いながらも、 ひたひたと染みてくる哀しさにそっと唇を噛んだ。 小さく零した溜息は、静かな夜の街に思いのほか響いて不二の胸を余計に締め付けた。 一緒に初詣でに行こうという話をしたのはもう随分と前のことで。 何かの話のついでにじゃあ大晦日の夜に待ち合わせて一緒に行こう、と軽く言葉を交わしただ けで、約束というほど堅いものでもなかった。 だからこそこうしていつもの待ち合わせ場所へと祈るような気持ちでやって来て彼の姿を見つ けた時には、思わず涙が滲みそうなほどほっとしたというのに。 これじゃ何も変わらないじゃないか、と重く張り詰めた空気に哀しさだけがしんしんと積もっ た。 真冬の夜気の冷たさが指先に沁み入り、体温を少しずつ奪っていく。 このまま帰るしかないのだろうか。 いつまでも黙って突っ立っていても仕方がないし、いたたまれなさに押されて不二は静かに口 を開いた。 「英二、やっぱり今日は帰…」 言い終える前に菊丸の躰がガードレールから飛んで、言葉を途中で飲み込む。 「英二?」 靴音を立ててアスファルトに着地するなり黙ったまま歩き出した菊丸は、やはりまだ不貞腐れ たような顔をしていた。だが振り向かないその背中には、何処か頑さが欠けていて。 彼がもう怒っているわけではないことにふいに気が付く。 そして菊丸が足を向けている方角が彼の家でも不二の家でもないことにも気が付いて、不二は 慌てて後を追った。 追い付いて菊丸の隣に並んだ途端に、 「なんで手袋してないの?」 突如振り向いて怒ったように問われ、思わず戸惑って見返した。 数日ぶりの、菊丸の声。 「あ…なんか…忘れてきちゃった」 ようやく重なった瞳に意識が囚われて、覚束ない声が出る。 菊丸もしばらく放心したように不二の瞳をじっと見つめた後、ハッと我に返ってどこか慌てた ように瞬きを繰り返した。 「こんな寒いのに何やってんの」 唇を尖らせそう言って、フイと顔を逸らした菊丸の頬が微かに赤い。 鼓動が速くなったような気がして、滲んだ感情に密かに焦った。 何かを言わなくてはと口を開こうとした不二の胸元に押し付けられた物を、慌てて受け取った。 冷えた手に乗せられたのは、菊丸の手袋の片方で。 「もう、ほら」 まだ彼の温もりの残るそれをぼんやりと見つめていたら、ぐいと手を引かれて左手にはめられ た。 何だか、今日はおかしい。 感情が飽和したように思考がうまく働かなかった。左手に移された温もりが、心の端を緩やか に引っ張る。 彼の意外と器用な手の動きを眺めていると、 「これだから不二って心配」 毛糸に包まれていない右手が菊丸の手袋を外した左手に包まれてそのまま彼のコートのポケッ トへと押し込まれてしまった。 久しぶりに触れ合った体温が、何かの優しい生き物のように指先から躰内へとゆっくり染み込 んでいく。 その温かさにほんの少し泣きたくなって、やはり今日の自分はどこかおかしいと不二は困った。 「何言ってんのさ。英二の方こそ心配だよ、無茶ばっかりするし」 熱くなってきた頬を彼とは反対の方へと逸らして、言い返してやる。目を合わせたら何か余計 なことまで口走ってしまいそうな気がした。 「いーや不二だね」 「英二だってば」 まるで幼い子供のようだと思いながら、躰の奥で凍えていた塊が緩やかに溶け出していくのを 感じていた。 菊丸も、同じだったらいいのに。 この鼓動を。この痛みを。この熱を。 「ねえ、不二は願い事何にすんの?」 視線をややこちらへと向けて、菊丸がそう訊ねてきた。 全てを包む優しい左手が、ポケットの中で灯をともす。 「そんなのおしえるわけないだろ。そういう英二は?」 願う事など、ただ一つで。 「──俺だっておしえてやんない」 悔し紛れに唇を尖らせた菊丸の瞳を、ちらりと覗く。 「何で赤くなるの?」 みるみる染まっていった頬に問いかけると、うっさいな、と怒鳴られた。 静かだった夜道の奥から神社へ向かう人達の慎ましいざわめきが聞こえ始めてきて、不思議な 灯が不二の胸をくすぐった。 「まあ英二の願い事は予想つくけどね」 「…っ」 瞳を合わせて思わせぶりにニコリと微笑ってやると、びくりと一瞬肩を揺らした菊丸の顔がこ れ以上ないくらいに真っ赤に染まってしまった。 「それぜったい違うから!」 「あ、違うんだ? 残念」 「ちが…っ……もういいっ!」 あたふたと顔に熱を上げたり下げたりした菊丸が、言葉に詰まって不貞腐れたように赤い頬を 逸らした。 くすくすと、自然と溢れ出る笑みが二人を包む夜気を揺らす。 ポケットの中は、熱の溶け合うそのままで。 「…ぜってーかなうし」 こちらを見ずに呟いた菊丸のその声に、もう一度小さく微笑った。 fin. ---------------------------------------------- 謝らない仲直り。菊不二編。(20070128) |
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