| 上昇アイスクリーム 「暑い…」 畳の上に仰向けに寝転んだ伊角が、力無く団扇を動かしながら低い声を押し出した。 「クーラー無くて悪かったよ」 あまりに何度も暑い暑いと繰り返すものだから少々むくれて唇を尖らせると、彼は視線をチラ リとこちらに向けてまたすぐに気怠そうに天井へと戻した。 何だよ、さっきまでとえらい違いじゃないか。 つい先程まで碁盤を挟んで向かい合っていた時には、部屋に籠る熱気など感じさせない冴えた 瞳を石に向けていたというのに。額に汗が滲んではいたが口元に手を当てて思考を巡らせている 伊角の白い顔にはピンと冷たい空気が張っていて、ゾクゾクするような緊張感を和谷は感じてい た。 それなのに。 「…あつい…」 だらりと体を投げ出して緩慢な動作で団扇で顔を扇いでいる今の姿は別人のようだった。例年 より暑さが厳しいこともこの部屋にクーラーが無いことも元々伊角が暑さに弱いということも全 て重々承知だったが、さすがに呆れとも憐れみとも取れる感情が和谷の胸に湧き上がる。今の彼 と言ったらまるで無気力を絵に描いたようで、そのまま畳と同化してしまいそうな具合だった。 暑いのは和谷とて同じだったが何やら少し、可哀想になってくる。 ゆっくりと巡ってきた扇風機が送り出す風が畳に広がった伊角の黒髪をサワサワと揺らした。 彼はその間だけ団扇を動かす手を止め、心地良さそうに睫毛を伏せて送り出されてくる風に顔を 晒す。 無防備なその表情はあどけなく、それでいて暑さで上気した頬がひどく艶っぽかった。 「…誘ってんのかよ」 思わずポツリと呟いた和谷の声は風の音にかき消され、再び扇風機が他所へと首を巡らせるの に合わせて伊角の顔に気怠そうな表情が戻る。 扇風機の風は今度は和谷の頬を涼めたが、別の熱が体内で上がったまま燻るのを感じてそわそ わと身動いだ。 「あ、そうだ。伊角さんアイスあるよ、アイス。食う?」 速まった鼓動を知られたくなくて、ふいに思い出したアイスクリームの存在を慌てて告げる。 声が少し上擦ってしまったが、 「…食う」 溶けかかった伊角の意識はその言葉の中身しか捕えなかったようで、彼は首を和谷の方へと巡 らせてそう答えた。 虚ろだった瞳に急に期待のこもった光を浮かべて和谷を見遣るその姿を見て、子供みたいだと 笑い出しそうになった。気を許されているのだと思うと甘酸っぱい気持ちが湧いてくるが、それ と同時に何と困った人なのだろう、とも思う。 困るのだ。 そんなにも無責任に、熱を煽られたりしたら。 「ちょうど二個あるんだけど……どっちがいい?」 冷凍室から取り出したカップのアイスクリームをテーブルの上に並べると、伊角が漸く畳に横 たえていた体をゆっくりと起こした。 髪に寝癖をつけたままテーブルへとにじり寄ってくる彼に、本当に勘弁してほしいと天井を仰 ぐ。 動悸は一向に治まらず、むしろ悪化の一途を辿りつつあって。 「何味?」 「…両方バニラなんだけど…」 言い淀んでしまったのは煩い鼓動のせいだけではないということを、辿り着いてテーブルを覗 いた伊角のきょとんとした顔が物語っていた。 彼が口を開く前に、諦めて先に説明してしまうことにする。 「こっちが俺が月曜日に買ってきたやつ。で、こっちが昨日の冴木さんの土産の残り」 言いながら、某国内メーカーの特売品のカップを指し、続いて隣のハーゲンダッツを指差した。 「おお。あからさまな貧富の差だな」 「貧富言うな」 腹が立つほど清々しく率直な意見を述べた伊角を、口を尖らせて睨む。 冴木の独り住まいの家には確か、リビングと寝室のそれぞれにエアコンがついていた。ふとそ れを思い出し、増々和谷の機嫌は下降した。 「どうせ伊角さん、味の違いなんかわかんないくせに」 不貞腐れて呟くと、 「和谷よりマシだね」 と、何とも可愛げのない返事が返ってきた。 「何言ってんの。この前だってパイン味の飴、レモン味だと思ってたじゃん」 「お前なんてこの前レストランでこれ魚? 鳥? とか言ってただろ」 「…だってやけにパサパサしてんだもんアレ。普通わかんねーって」 「お前の普通の基準の方が俺にはわからないね」 何という小憎らしさだろう。 気怠そうな顔で鼻を鳴らした伊角に何とか反撃してやろうと、和谷は暑さで鈍る思考を叱咤し た。 ふいに目の前の、薄く開かれた唇に意識が囚われる。 「だったらさ、」 口の中が乾いて、ゆっくりと押し出した声が微かに掠れた。 「これ当ててみせてよ」 言いながら二つのカップの蓋を開ける和谷を不思議そうに見つめてくる伊角に、 「目、瞑って」 少し強めの声を出す。速まり出した鼓動が熱のこもった体の中で煩く鳴り響いた。 一瞬だけ躊躇った後、和谷は手を伸ばして事態を飲み込めずに瞬きを繰り返す伊角の目を覆っ た。しっとりとした彼の肌の感触が手の平に広がる。 「な…」 突然目隠しをされてビクリと震えた伊角の体が後ろへ逃げようとしたが、和谷は手を離さずに そのまま覆い続けた。咄嗟に目蓋の上の和谷の手に触れた彼の指先は、思っていたよりもずっと 高い熱を帯びていた。 「どっちのアイスか当ててよ。はい、あーん」 「……」 言いながらアイスクリームをスプーンで一匙掬って口元へと運んでいくと伊角は漸く和谷の意 図を理解したようで、目隠しを取ろうとしていた手を下ろした。 「溶けちゃうよ?」 唇を結んだまま逡巡している彼をそっと促すと、 「──わかったから手、どけろよ」 目は閉じてるから、とひどく小さな声が返ってきた。囁くようなその声が放った熱が背筋を這 い上がり、ぞくりと震える。 背徳感が、じわりと滲んだ。 和谷の手の下で淡く色付く肌が艶かしく香るのを感じて、怯えるように手を離す。一瞬とはい え、暴力的ともいえる欲望の衝動が胸に湧き上がったのを息を詰めてやり過ごした。 「…はい、」 掠れそうになる声を何とか押し出して促すと、僅かに躊躇った後、伊角がおずおずと唇を開い た。 薄く開かれた唇の向こうに赤い舌がチラリと見える。 ドクン、と心臓が大きな音を立てた。 タチが悪いのは自分なのか、それとも彼なのか。 唾を一つ呑み込み、溶けかかったアイスクリームを乗せた銀色のスプーンを目の前の唇の中へ とそっと差し入れた。 「……」 伊角の舌が甘い塊を絡め取るのが柄を掴む指に伝わってくる。スプーンを静かに引き出した後、 濡れて光る仄紅い唇から目が離せず見つめ続けた。 「…ハーゲンダッツ」 「当たり」 告げられた声も応えた自分の声もどこか意識の遠い処で響くのを聴きながら、和谷はもう一匙 アイスクリームを掬って差し出した。 「今度は?」 銀色のスプーンが唇の中へ吸い込まれ、再び返る。 耳の奥で鼓動の音が鳴り響き、目眩にも似た感覚が和谷を包んだ。 熱い。 体を内側から溶かす熱が意識の芯を灼いていく。 「今度も同じ」 「…当たり」 「もういいだろ?」 「駄目。もう一回」 「わかったよ。これで最後だからな」 新たに掬ったスプーンを口元へと運ぶと、伊角はやはり同じように少し顎を持ち上げて唇を薄 く開いた。 閉ざされた目蓋を縁取る睫毛と、汗で額に貼り付いた前髪の艶やかな黒が白い肌に映えてひど く艶かしい。 込み上げてきた衝動が何であるか考える間もなく、和谷は手にしていたスプーン上のアイスク リームを自分の口の中へと運んでいた。 舌の上に甘いバニラの味が広がる。 熱のこもった体に染み込むような冷たさを感じながら、それが溶けきる前に素早く伊角の顎を 捕えて薄く開かれたままだった唇を自分のそれで塞いだ。 驚いた伊角がビクリと体を震わせて目を開けたのがわかったが、そのまま舌を捩じ込んで甘い 塊を流し込む。逃げようとする舌を絡め取ると、二人の舌は混じり合った熱さと冷たさに甘く痺 れた。 「和谷…っ」 少し乱暴に胸を押して体を離した伊角が、上がった息ごと避難の声を吐いた。 「どっち?」 冷静な顔で問いかけてやると、上気していた伊角の頬がカアッとさらに赤く染まった。 「そ、んなの…」 「わかんねーの? じゃあもう一回」 テーブルから掴み上げたカップにスプーンを差し込みアイスクリームを多めに掬い取ると、自 分の口の中へと放り込む。 察して体を引こうとした伊角の腕を掴んで身を乗り出すと、和谷は強引に唇を塞いでもう一度 舌を中へと捩じ込んだ。 「……!」 先程よりもずっと強い甘味と冷たさが口内に広がる。 バニラの香りが鼻先でふわりと香った。 伊角の後ろ髪に手を差し入れて口付けを深くし、塗り込むように舌を這わせる。冷たさに神経 が尖った舌にじわりと熱が染み込んできて、熱いのか冷たいのかわからなくなっていった。 「…ん…っ…」 合わさった唇から鼻にかかった声が漏らされて、体の芯が痛いくらいに疼いた。 急かされるように息が上がる。 固く瞑られた伊角の目蓋の白さと上気した頬の紅さが飽和した脳に灼きついて新たな熱を体の 奥から呼び起こした。 「アツい?」 掠れた声で訊ねると、熱に浮かされたような顔で伊角が小さく頷く。 暑さも熱さも全てが溶けて混じった空気を二人の乱れた息が揺らした。 気怠さによって余計に煽られる快感が奥の方からじわりと広がっては体温を上昇させる。頭の 芯はやはり溶けて靄がかかったように鼓動だけを響かせ、どうしようもないほど熱い衝動だけが 体内を満たしていた。 唇を重ねたまま腕を伸ばしてアイスクリームのカップを掴むと、スプーンが落ちてテーブルの 上で跳ねる音がした。そのままカップだけを引き寄せ、溶けかけた乳白色の塊へ合わせた人差し 指と中指を差し入れる。 熱っぽい伊角の視線の先で、たっぷりと掬い取った。 「……」 黙ったままアイスクリームを乗せた指先を伊角の口元へ持っていく。 睫毛の先を微かに震わせて和谷の瞳を見つめた後、彼はゆっくりと唇を開いた。 濡れた舌が指に絡んだのを合図に伊角の体を畳の上へと押し倒す。 汗に湿ったTシャツをたくし上げると、促されるままに彼は珍しく子供のような従順さで袖から 腕を抜いた。 体内にこもった熱の高さを感じさせるその目元が、眼下に無防備に晒された仄かに染まった肌と 共に和谷の意識を甘やかに混濁させる。 投げ捨てたTシャツが扇風機に当たり、生温い風を送り出していたそれが部屋の奥の方へと向いた。 置いたままだった棋譜の山からカサカサと紙が舞い上げられていく音を意識の隅で聴いた気がし たが、すぐにわからなくなった。 fin. --------------------------------------------------- お誕生日おめでとう和谷vv(遅…) 今年の記録的猛暑を振り返って。壊れ気味なおふたり。 (20040828) |
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