甘美な侵食





  静かな、凍り付いた湖。
  見つけたのは僕。
  石を投げ入れ、氷を砕いたのも。

  でも。

  その割れた氷を溶かしたのは──僕じゃない。





   +  +  + 





  頭上の小さな明かり取りの窓から見える空が、ゆっくりと橙を帯びてきていた。
  茜色の塊がゆっくりと融解し、色を深めた熱の帯が染み込むように一面を染め上げていく。
  微かに流れ込んでくる空気が少し冷えてきたようだった。
 「リリー」
  ジェームズはゆっくりと、囁くようにその名を呼んだ。
  腕の中の華奢な躯を引き寄せ、窓から差し込む柔らかな橙の光の滲んだその頬にそっと唇を落
 とす。
  クスクスとくすぐったそうに笑いながら見つめてくる、強い意志を秘めた深い瞳。
  ジェームズもくすりと笑みを返すと、彼女の髪に指を差し入れ静かに梳いた。
  そのまま頬に手を添え、少しかがむようにして顔を寄せる。
  艶やかな唇を、自分のそれで塞ぐ。
  始めは軽く。そして徐々に…
 「シリウス!」
  バタンというドアの開く音と共に、聞き慣れた声が静寂を破った。
  本を何冊か抱えるようにして持った細い躯が勢いよく飛び込んできた。
  リリーを抱き寄せたまま、ジェームズは顔だけ入り口へと向ける。
 「あ」
  声を上げたのは侵入者の方だった。
  白い頬がみるみる朱を帯びていき、
 「ご、ごめん」
  あたふたと引き返そうとした彼の手からバサバサと本が床へと落ちた。
  あわててしゃがみ込む彼を見て、リリーがジェームズにいたずらっぽく微笑んだ。
 「私はそろそろ引き上げるわ」
  くるりと躯の向きを変えて離れていくと、彼女は屈みこんで散らばった本を拾い上げた。
 「はい。そんなに慌てなくていいのよ、リーマス」
 「ご、ごめん…あの、」
  真っ赤になって本を抱え直し、今にも外へ走りだしていきそうなリーマスの腕を、リリーが優
 しく捕らえた。
 「出ていかなくていいのよ。私はもう部屋に戻るから」
 「でも…」
  頬を窓の外の空よりも紅く染め、おろおろと視線をさまよわせているリーマスの姿に、自然と
 笑みがこぼれる。
 「…今度バタービールおごってね」
  小声でそう告げると、リリーはウィンクを一つ残して、立ち尽くすリーマスの脇をすっと通り
 抜けて行った。
  呼び止める暇もなく遠ざかって行った姿を見送った後、リーマスは部屋の中に向き直った。
 「……ごめん、ジェームズ。てっきり中にいるの、シリウスだと思って…」
  まだ頬が紅い。
  ジェームズはくすくすと楽しそうに笑った。
 「いいんだよ、リーマス。それより中へ入ったら?」
  促すと、静かにドアを閉めた。
  古びた机にもたれるようにして立っているジェームズに近寄ってきたものの、リーマスの視線
 は落ち着かなげに部屋の中をさまよっていた。
  親友とはいえ、こうした私的な場面を目撃してしまったのが気まずさをよんでいるようだった。
  否、親友だからこそ、かもしれない。
  ジェームズの頭に昨夜のことが甦った。
  少しだけ目が細まったが、すぐに元の表情に戻る。
 「シリウスと待ち合わせてたの?」
 「いや、そういうわけじゃないんだけど…たぶんここかなって思って」
  抱えた本の山に目をやると、リーマスは一瞬はにかんだような顔を見せた。
 「ああ、これ、今日の魔法薬学の授業で気になったとこがあって…シリウスが教えてくれるって
 いうから」
  ジェームズは胸の奥で僅かではあるが何かがざわつくのを感じた。
  冷たい甘さを隠した、何か。
 「そう。…でも待ち合わせていたわけではないんだろう?」
 「ん…うん。別に今っていう約束じゃなかったんで」
  ジェームズはつい先程の様子を思い出していた。
  自分たち以外に場所を知る者のいない部屋とはいえ珍しくノックもせずに飛び込んできたリー
 マス。
  それだけ浮かれていたということか。
  中から人の気配を感じたとたん、すぐにシリウスだと思い込んでしまうほど。
 「それ、口実でしょ?」
  笑みを浮かべたまま訊ねると、リーマスはきょとんと見返してきた。
 「え?」
 「本。…あってもなくてもいいんじゃないの? ホントは」
  意味がわからず瞬きをしているリーマスに、にっこりと笑いかける。
 「談話室とかじゃなくて隠し部屋を使うってあたりが、ね」
  ようやく悟ったのか、リーマスの頬が再び紅く染まった。
 「な、別に、そういうわけじゃ…」
  ジェームズはその恥ずかしげに伏せられた顔をじっと見つめた。
  胸の奥で、また何かがざわりと動いた。
 「図星だね」
  くすくすと笑うと、頬を染めたまま眉をしかめて「ジェームズ」と睨んでくる。
  その、瞳。
  リーマスの瞳を覆う見えない影が姿をひそめる瞬間。
  ジェームズは知っていた。
  その無防備な鳶色を見ることができるのは自分と──シリウスだけであることを。
  でも。
  ──シリウス。
  彼の口から、幾度となく紡がれるその響き。
  その唇が与える特別な意味。
  ──シリウス…
 「ねえ、リーマス」
 「え?」
  ジェームズは机に寄り掛かっていた躯を起こすと、ゆっくりとリーマスに歩み寄った。
  いつもと変わらぬ笑みを浮かべながら、手を伸ばした。
  柔らかな頬に手を添えると、不思議そうにジェームズを見つめてくる。
  頬に当てていた手をそのまま顎まで滑らせ、すっと持ち上げた。
 「たまには…呼んでよ」
  胸を侵食する、甘美な毒。
 「…っ!」
  鳶色の瞳が見開かれた。
  本がバサバサと音をたてて床へ散らばる。
  細い腰に回した腕と──塞いだ唇から伝わってくる微かな震え。
 「…んっ…」
  強ばっていたリーマスの腕が、はっと気づいたように胸を押し戻した。
 「…っ!…ジェ、ムズ!」
  抱き寄せている腕の力を少しだけ弱めて解放してやると、リーマスは胸を上下させて喘いだ。
 「い、ったい…どういう…つも…」
 「君とシリウスに良いアドバイスがあるんだけど」
  乱れた息を整えながら、リーマスが眉をひそめる。
  上気した頬と濡れた薄紅色の唇が白い肌から浮き立っていた。
 「部屋ではやめておいた方が無難だよ」
  にっこりと微笑んでそう言うと、リーマスの顔にはますます困惑の色が広がった。
  笑みを浮かべたままジェームズはそっとリーマスの耳元へ唇を寄せてつぶやいた。
 「…『だめだよ、シリウス。誰か起きたらどうするんだ』」
 「!?」
  リーマスの顔が火がついたように一瞬で染まった。
  耳も首も燃えるように紅い。
 「な…ジェー…ズ……聞いて…」
 「あいにく寝付きは悪い方でね」
 「…っ…」
  昨夜、眠りに落ちかけていた意識を呼び戻した、荒い息遣いと衣擦れの音。
  そして──押し殺したリーマスの、声。
 「リーマス、大丈夫かい? 沸騰しちゃってそうだけど」
  これ以上は無理というほど真っ赤になってうつむいている姿をくすくすと笑いながら眺める。
  羞恥で潤んだ鳶色の瞳が──すごく綺麗だ、と思った。
 「僕以外はしっかり眠ってたみたいだから安心していいよ。一応礼儀として目はつむっておいた
 んだけど、さすがに耳までふさぐわけにはいかなかったからね。…なかなか刺激的な夜だったよ」
  小さくウィンクをすると、リーマスは声が出なくなったかのように喘いだ。
 「…ジェームズっ!」
  ひとしきり笑った後ふいにジェームズの手が伸び、まだ紅潮している頬に再び触れた。
 「ねえ、リーマス」
  リーマスは一瞬身を固くしたが、微笑みを浮かべているジェームズの瞳が笑っていないことに
 気づいて、抵抗しようと上げかけた手を下ろした。
 「…ジェームズ?」
 「呼んでよ」
 「え?」
 「呼んで、リーマス」
 「え…何? 何のこ…っ…」
  言葉が途切れる。
  ジェームズの唇がリーマスの耳に触れ、そのまま下へおりる。
  首筋にそって口付けていくと、リーマスの躯がぴくりと動いた。
 「ちょっと、やめ…ジェームズ!」
  火照りの引かない頬がますます染まった。
  抵抗しようとする手が震えている。
  襟元を弛め、鎖骨のあたりを軽く吸いあげると、腕の中の細い躯が小さく跳ねた。
  ジェームズは顔をうずめたままくすり、と笑った。
 「大丈夫だよ。跡はつけないから」
 「…っ! ジェ…ムズ!」
 「そうじゃないよ。ちゃんと呼んでくれないと」
 「…だから…何の…っ」
  ジェームズは一度顔を上げ、リーマスを真直ぐ見つめて微笑んだ。
 「名前だよ。僕の名前」
 「…え?」
  シャツの隙間からジェームズの手が滑り込んだ。
 「何を言って…ジェームズ…!」
 「違うよ。そうじゃない」
 「…あ…っ…」
  肉付きの薄い躯に手を這わせる。
  滑らかな肌。
  幾度となく──シリウスの手が触れたであろう、白い肌…。
  ジェームズは自分の頭の中がひどく冷静なことに気がついた。むしろ冷ややかなほどに。
  それなのに、胸の奥で微かに熱が疼いていた。
  静かな熱。その分、息苦しいような──心地良いような。
  甘美な、毒。
  ふとジェームズの手が止まった。耳をそばだてる。
  ドアの方に視線を投げると、側の机に手を伸ばし、置いてあった杖を手に取った。
  素早く呪文を唱え、ドアに向かって杖を振る。
  カチャ、というカギの閉まる音が響いた。
  そのほんの少し後に。
  誰かがドアをノックした。
  ノブを回してみる音と。
 「…リーマス? いるのか?」
  ジェームズの腕の中で細い躯が硬直した。
  自分の乱れた服を眺めて青ざめるのがわかった。
  ジェームズは開きかけたリーマスの唇に素早く指を置く。
  静かに、と声を出さずに伝えると、ジェームズは急に息切れしているような声で言った。
 「ちょっと待って、リリー」
  ドアの外へもぎりぎり聞こえる微妙な音量。
  ノブをガチャガチャ鳴らす音がピタリと止んだ。
  突然挙がったリリーの名に困惑するリーマスをよそに、ジェームズは今度ははっきりとドアへ
 向かって声をあげた。
  またもや軽く息切れしているように、
 「悪い、シリウス。今ちょっと取込み中」
  一拍の間の後、
 「あ、悪い」
  慌てたようなシリウスの声が返ってきた。
  廊下を遠ざかっていく足音を聞き届けたジェームズが、ニヤリと笑った。
 「俳優になれるかな?」
 「……」
 「生きてるかい? リーマス?」
 「……」
  瞬きをするのも忘れてドアを見ていたリーマスが、細く長いため息をもらした。
  そのままジェームズの肩口に額をつけてもたれかかる。
 「…ジェームズ。僕に恨みでもあるのかい?」
 「心外だな」
  なだめるようにその薄い背中を撫でながら、ジェームズは目を閉じた。
  口元から笑みが消える。
  目の前の鳶色の髪に頬を寄せた。
 「…愛してるんだよ」
 「……今は笑う余裕がないんだけど」
 「本気だよ、リーマス」
  リーマスが埋めていた顔をゆっくりと上げた。
  その時にはもうジェームズの顔にはいつもの笑みが戻っていた。
 「愛してるよ、リーマス」
 「…リリーに言っちゃうよ」
 「リリーのことももちろん愛してるさ」
  ジェームズの指が、リーマスの髪をそっと梳いた。
 「リリーのことも君のことも。ただ──リリーには恋をしているけど君には恋をしているわけじゃ
 ない」
  リーマスはゆっくりと瞬きをした。
 「それなら…」
  ジェームズの瞳を真直ぐに見つめる。
  一語一語、意味を確かめるようにささやいた。
 「──それなら、僕だって君を愛してるよ、ジェームズ」
 「……」
  ジェームズの顔から一瞬微笑みが消えた。
  そして──
  深い笑みが浮かんだ。
 「…合格だな」
 「?」
 「名前。今の呼び方」
  虚をつかれたように瞬きをしたリーマスは、ため息をもらして呆れた顔を向けた。
 「まったく君の考えてる事はよくわからないよ、ジェームズ」
 「そうでもないと思うけど?」
 「よく言うよ」
  脱力したリーマスがくすくすと笑い出すと、ジェームズも笑みをこぼした。
  ふいにリーマスが笑いをおさめ、戸惑うように目を伏せた。
 「そんなに、僕…」
 「まあ僕だっていつもリリーで頭がいっぱいだけどね」
  言葉を遮る。
  答えはわかっていた。促したのは自分だ。それなのに。
  ──そんなに、僕……シリウスのことばっかりになってた?
  聞きたくない。そう思ったのはなぜだろう?
 「…だいたい何でまたこんなことを…」
  リーマスは頬を染めて軽く睨んだ。
 「邪魔されたからね……それだけじゃないけど」
 「……今度僕がリリーにバタービールおごるから、君は僕におごってよ」
  ジェームズは返事をする代わりに、その柔らかな頬に口付けた。





  服を整え本を抱え直したリーマスが、ドアの前で足を止めて振り返った。
 「ジェームズ」
 「ん?」
  机に寄り掛かって見送っていたジェームズが、鳶色の瞳を見つめ返す。
 「僕はちゃんと憶えているよ、ジェームズ」
 「?」
 「僕を──最初に呼んでくれたのは君だってこと」
 「……」
  リーマスはふわりと笑うと、
 「──忘れる気もないけどね」
  言い残してドアの向こうへ消えた。
 「……」
  ジェームズは自分の額に手をやった。
 「…参ったな」
  胸の奥のざわつきが消えていた。
  残ったのは、ただ甘やかな痛み。
  閉じられたドアを眺める。
 「本気になったらどうしてくれるんだ」
  誰もいなくなった部屋の中に、ジェームズのくすくすと笑う声が流れた。





  ──リーマス。
  ──……。
  ──君の名前、リーマスだろ?
  ──…うん。
  ──僕はジェームズだよ。ジェームズ・ポッター。
  ──……。
  ──よろしく、リーマス。
  ──…よろしく。……ジェームズ。
  ──君、シリウスを知ってるかい? 今から一緒に出かけるんだけど…君も行かない?
  ──え?

  ──行こう。リーマス。
  ──……うん。


   伸ばした手。
   ためらいがちに差し出された手の重み。


  ──こっちへおいでよ…
  ──……うん…

  ──こっちへ…










  fin.










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フェチ小説(笑)。以前に某企画で書かせていただいたものを
引っぱりだしてきてみました。恋愛感情が絡まない分、リーマ
スはシリウスよりもジェームズの方をより信用していたのでは
ないかと勝手に妄想しております。
密かに大好きなマイナーカップリングだったり。
(2002.04.23 >> 2002.08.05)