| 水中心音 じゃあそろそろ、と立ち上がりかけた和谷に、 「あ、先生。もう一局! 最後にもう一局だけお願いしますよ!」 目の前の初老の男が手を合わせた。 「…じゃあ、もう一局だけ」 自分の親よりもずっと年上の人に、しかも「先生」とまで呼ばれて無下に断ることもできない。 一度閉じた碁笥の蓋を再び開きながら、和谷はちらりと時計に視線を走らせた。 ──伊角さん、どうしたかな…。 別会場で伊角が受け持っていたセミナーもとうに終わっているはずである。 早めに取った夕食の後は別々の会場での仕事を割り当てられていたため、顔を合わすことすら なかった。 ──まさか飲みに連れ出されちゃったりしてないよな…? 時間が時間なだけに、和谷がいるこの会場内にも酒気を帯びている者の姿は決して少なくなかっ た。和谷が受け持っていた指導碁の時間はもう終わっているので本来なら部屋に引き上げてもい いのだが、参加者たちの熱意に押されてこうしてサービス残業中なのである。今回のイベントの スケジュールから見れば、それは優に2時間は超えていた。 今日の分のイベントは一先ず終了しており、今こうして会場内にいる彼等は温泉につかっての んびりくつろいだ後の寝るまでの一時を過ごしに来ている者達だった。旅館内にある催事場を会 場として使用しているのでそのような自由が許される。その為、和谷以外の全員が浴衣姿、おま けに片手にはビールの缶、という風であった、 わざわざ温泉地に赴いての泊まり掛けのイベントに参加しようというのだから熱心な参加者が 多いのも頷けるし、和谷も同じ囲碁を愛する者としてできる限り彼等の要望に応えてやりたいと も思う。──ただしそれは自分一人の場合だったら、なのである。 ──終わってるんだろうからこっちに来てくれたっていいのに。あーあ、早く伊角さんと温泉 入りたいなぁ。一緒に温泉なんて初めてだもんな…。 思わず弛んできた口元を慌てて引き締めると、和谷は盤上に視線を戻した。 棋院の廊下で今か今かと待ち構えていた和谷は、手合いを終えて出て来た伊角の腕を掴むなり、 ひと気のないところまで引きずって行った。 「おい、和谷。どうしたんだよ?」 びっくりしてパチパチと瞬きを繰り返す伊角の眼前に、一枚の紙きれを突き付ける。 「何?」 満面の笑みを浮かべている和谷に促されて伊角がそれを手に取った。 「えーと…『日本棋院主催、湯ったり囲碁ツアー』? あ、これってこの間話に出てた温泉旅館 に泊まりでやる囲碁セミナーってやつ? もう決まったのか。ええと棋院側の参加者は…あ、俺 と和谷、二人とも入ってるじゃないか」 「えへへ、それだけじゃないんだぜ。ほら、ここ見てよ!」 当日のスケジュールの下に書かれた表を指差すと、伊角が「お」と眉を上げた。 「部屋も一緒なんだな」 「そうなんだよ! しかもここって露天風呂あるんだってさ!」 一緒に露天風呂につかり、一緒の部屋で眠る。 まるで二人で旅行に行くようで、押さえられない笑みが絶え間なく溢れてくる。 一瞬、湯煙を纏った伊角の白い肌が脳裏をかすめて躯に熱が走った。 慌ててその像を頭から追い払いながら、伊角の反応を伺う。 ──伊角さんも喜んでくれるよな? 俺との温泉旅行。 すでに仕事だということを忘れかけている和谷だった。 「へえ、露天風呂なんだ」 伊角の嬉しそうな声に、和谷の顔がパッと輝く。 「楽しみだね、伊角さんっ」 「ああ。ちょうど行きたかったんだよなぁ、温泉。最近、肩こりがひどくってさー」 「……」 「ん? どうした和谷?」 「……そんなジジくせぇこと以外にもっと言うことがあるんじゃねぇか、フツウ…」 思わず目の据わった和谷を、伊角が不思議そうに見つめる。 「何ブツブツ言ってんの、おまえ」 きょとんとしている伊角を見て漏れそうになったため息を何とか飲み込んだ。 ──まあ今に始まったことじゃねぇしな。行ってしまえばいくら伊角さんでもちょっとはムー ドとか感じてくれ……る、よなあ? あ、何か不安。 和谷はプリントに目を落としてスケジュールを確認している伊角の両腕を掴むと、訴えるよう に身を乗り出した。 「なあ伊角さん、温泉楽しみ? 楽しみだよな? な?」 「え? あ、ああ。楽しみだよ」 その気迫に押されて伊角が頷くと、和谷の顔にパッと明るさが戻った。 「やっぱり? そうだよなー。うんうん」 「何だよ、変なヤツだなぁ」 伊角の顔を覗き込むようにしながら、和谷がもう一度えへへ、と笑った。 やっと最後の指導碁が終わり、和谷は逸る気持ちで碁石を片付け始めた。 会場内に残っていた人々も「そろそろ寝るか」と腰を上げ、碁石や椅子を片付ける音でにわか に騒がしくなった。 これで念願の伊角との露天風呂タイムがやってくると思うと、それだけで終日の仕事の疲れな どふっ飛んでいく。 ──伊角さん、やっぱ部屋かな? 碁笥の蓋を閉じ、いそいそと立ち上がろうとした時、 「あ、いたいた。和谷、終わった?」 聞き間違うことのない声が、喧騒をすり抜けて届いた。 一瞬で笑みの広がった顔を上げて声の元を辿った和谷の動きがピタリと止まる。 にこやかにこちらへやって来る伊角の姿を立ち上がりかけた姿勢のまま凝視した。 「もう部屋かなって思ったんだけど覗いてよかったよ。ずいぶん遅くまでやって…どうした? 変な顔して」 「…どうしたもこうしたも何で風呂あがりなんだよ伊角さんっ!?」 しっかりと浴衣を着込んだ伊角を指差す手が震える。 「ああ、俺セミナー終わった後、明日の会場の準備を手伝ってたんだよ。そうしたら結構汗かい ちゃってさ。ちらっとここ覗いたらおまえまだ当分かかりそうで暇だったから入ってきちゃった」 「…入ってきちゃったってそんなあっさりと…」 「早くおまえも入ってこいよ。結構広くて気持ち良かったよ。ほら、とりあえず部屋に戻ろう」 ──一緒に露天風呂…。最大の楽しみが…。 脱力して机に倒れ込みそうになるのを何とか堪えて立ち上がる。 打ひしがれている場合ではない。 幸か不幸か伊角の「無意識の肩透かし」には慣れている和谷である。 「伊角さんっ、お願い!」 両手を合わせてほとんど懇願に近い体勢に転じた。 「もう一回入ろう! 今度は俺と一緒に! な、いいだろ?」 だが、和谷の必死の願いに、 「えー、そんなに入ったらふやけちゃうよ。ちゃんとおまえが戻ってくるまで起きて待ってるか らさ、寝る前に一局打とうぜ。な?」 伊角が小首をかしげて微笑んだ。 水気を含んで垂れ下がった髪がいつもより彼を幼く見せているのに、浴衣の襟元から覗く白い 素肌がやけに艶かしい。 反論するどころか、頬を染めて思わず頷いてしまった和谷だった。 「あーあ、一緒に入りたかったなぁ」 呟いて頭上を振り仰ぐと、湯煙の切れ間から星々が光を放っている。 和谷が入って来た時にいた他の客もすでに湯から上がっており、今ではすっかり貸しきりの状 態になっていた。 星空の下で誰にも気兼ねすることなく湯につかれる贅沢さに、隣に伊角がいないことがますま す悔やまれた。 「だいたいさ、いくら何でもひどくねぇか? 俺たちつきあってるんだぜ? フツウさっさと独 りで入ったりするか?」 ま、頷いちゃったの俺だけどさー、と口を尖らせる。 もう一回一緒に入ろう、ともっと食い下がるつもりだったのに、あっさりと承諾してしまった。 「…だってすげぇ色っぽいんだもんなー、伊角さん」 純日本的な顔立ちなので和装が似合いそうだな、とは思っていたが、実際に見てみると予想以 上だった。単なる旅館の浴衣なのにえも言われぬ艶を滲ませていて、和谷を思わず頷かせるのに は十分だった。 「あ、ヤベ」 思い出しているうちに湯から与えられるものとは異なる熱が体内で上がり始めて、和谷は意味 もなくバシャバシャと湯を掻き回す。 「俺、やっぱ一緒に入ってたらマズかったかも」 普段と違う場所にいるせいかいつも以上に動揺しやすくなっているようだった。 顔を手でパタパタと仰ぎながら、夜空を見上げる。 こうして一緒に同じ仕事をしているということ。 全部知っているつもりでいてもまだまだそれがほんの一部だと思い知らされること。 新しい喜びと、充足感。そしてほんの少しの焦燥感と。 和谷は自分の心をいとも簡単に揺さぶることのできる唯一の存在を胸に描きながら、そっと目 を閉じた。 「和谷ー」 ふいに届いてきた声に驚いた和谷が足を滑らせてよろける。 「え、えっ? 伊角さん!?」 慌てて振り向いた先、屋内の浴場に繋がっている出入り口の方からペタペタと裸足で歩いて来 る音が聞こえて来た。 「ど、どうしよう」 あれだけ一緒に入ることを熱望していたというのにその実何の心の準備もできておらず、和谷 は目を白黒させて立ち上がったかと思うとすぐにまた湯の中に沈みこんだ。 ──うわ、ど、どうしよう!? 俺ハダカだし!…って当たり前か! 早鐘を打つ鼓動が思考を邪魔する。 そうこうしているうちに湯煙の向こうから伊角が現れた。 「おー、和谷貸しきりだなー」 「……」 「気持ちいいだろー?」 「…伊角さん…浴衣で入る気?」 脱力した和谷が目の前の岩に抱きついて項垂れた。 しっかりと浴衣を着込んでいる伊角が、 「は? そんなわけないだろ。俺は入りに来たんじゃないよ。ほら、おまえこれ忘れていっただ ろう」 手に持った和谷の愛用している洗顔料のチューブを振って見せた。 「それに浴衣持ってったくせに帯忘れてたぞ。脱衣カゴのとこに置いておいたからな」 「──それは重ね重ねどうも」 一瞬でも舞い上がった自分の愚かさにぐったりしながら洗顔料を受け取って傍らの岩の上に置 く。 「スリッパが一つしかなかったからそうかなって思ったんだけど、ほんとに貸しきりだなこれ。 遅く来てよかったじゃないか」 ──よくねぇよ。先に入っちゃったくせに。 無邪気に声を弾ませる伊角を恨みがましく見上げる。 そんな和谷の無言の訴えに気づくはずもなく、伊角は乾きかけた前髪が目にかかるのを指で払 いながら「じゃあ部屋でな」とにこやかに微笑んで踵をかえそうとした。 和谷の手が伸びて、伊角の浴衣の裾をパッと掴む。 「ん?」 振り返った伊角に不思議そうに見つめられて、和谷の頬が染まった。 咄嗟に掴んだのはいいが、後のことなど考えていなかったのだ。 「和谷?」 言葉に詰まり、伊角の瞳から視線を逸らした。 駄目だと思いつつもその襟元へと視線が引き寄せられる。普段あまり襟の大きく開いた服を着 ないだけに、三角形に曝された肌の白さが余計に目についた。 「どうせだから伊角さんも入っていきなよ」 知らず、言葉がこぼれた。駄目だと認識したばかりだったのに。 自分で紡いだ言葉に、一度おさまった願望が再び沸き上がる。こんなふうに違う高さから声を 交わすのではなく、もっと近くで感じたいのだ。そう思ったとたん、自分のゲンキンさに呆れつ つも是が非でも一緒に入りたくなって、和谷は再び視線を絡ませた。 「ねえ、伊角さん」 ねだるように浴衣の裾を引くと、 「こらこら、引っぱるなよ」 苦笑した伊角が膝を折ってしゃがみこむ。 急に目線が近くなって和谷の心臓がドキリと跳ねた。 一瞬前まではもっと近づきたいと思っていたのに、距離が狭まったとたんに和谷は後悔した。 ふたりきりという状況が和谷の感覚をより研ぎ澄ませているのか、伊角の纏う空気は先程より も一層艶を含んでいるように感じる。 濡れた髪が、目元に落とす影が、白い胸元が、その全てが見えない薫りを和谷へと運び、呼吸 を乱す。 目眩がするほどに。 ──やっぱり駄目だ! こんなんで一緒に入ったりしたらヤバイって…! 曲がりなりにも公共の場でこれ以上理性を飛ばすわけにはいかない。自分で仕掛けておきなが ら、和谷はその誘惑に苦悶した。 すっかり早鐘を打ち出している胸を押さえながら「やっぱり先に部屋に帰ってて」と言おうと 和谷が口を開こうとしたとき、ふいに伊角がくすくすと笑いだした。 その笑顔があまりに綺麗で、和谷は笑いの元を探るのも忘れて呆然と見蕩れる。 え?と思う間もなく伊角が身を乗り出すようにして一層和谷に近づいた。 和谷の眼前で、白い鎖骨の浮かび上がった滑らかな肌が微かに甘い薫りを放つ。 浴衣の裾を掴む和谷の手に力がこもった。 耳の中で鼓動がうるさいほど鳴り響く。 「和谷、おまえ髪がペタンってなっててなんか可愛いぞー」 胸の奥を直接くすぐるような笑みを転がしながら、伊角が和谷の髪に触れた。 「……っ!」 全身に甘い痺れが走る。 和谷の手が浴衣から離れた。 勢い良く立ち上がる。 「え、和…!」 伊角の上げた声は盛大な水しぶきの音によってかき消された。 ざあっと音をたてて湯が岩の間を抜けて流れ出る。 忙しない水音と、それに続く静けさが二人を包んだ。 前髪から湯を滴らせて呆然としていた伊角が、自分の下で抱きとめるようにして伊角を支えて いる和谷を見てはっと我にかえった。 「──何てことするんだよ和谷っ!!」 「あは、ごめん。つい」 「つい、じゃないだろっ! つい、じゃ!」 伊角の手が髪に触れたとたん沸き上がった衝動を押さえきれずに、和谷はその伊角の腕を掴む と強く引いたのだ。 抱きしめたかった。──強く。深く。 衝動に駆られた和谷の頭からは、自分が風呂につかっていることはもちろん、引き寄せた伊角 がその風呂の縁にしゃがんでいるということもすっかり抜け落ちていた。 その結果がこれ、である。 「あーもう、どうすんだよこれ」 和谷の上から身を起こした伊角が、和谷に向かってぐっしょりと濡れた浴衣を摘み上げてみせ た。 重く垂れた前髪の隙間から睨むその視線すら、和谷の躯の熱を煽った。 目の前の伊角の姿にカッと頬が熱くなる。 「…伊角さん、そのカッコはちょっと…」 「え? 何?」 視線を逸らしてぼそりと呟いた言葉を訊き返す伊角を、ちらりと見遣る。 肌にピタリと貼り付いた浴衣が細い躯の線を浮かび上がらせ、捲れた裾の下ではすらりと伸び た脚が膝上まで露になっていた。 真っ赤な顔をしてオロオロと視線を泳がせている和谷を伊角が怪訝そうに覗きこんだ。 伊角の前髪から滴った水滴が頬の柔らかなラインに沿って流れて、はだけた白い胸元を滑り落 ちて行く。 ──あ、もう駄目かも…。 「あのさ、」 痛いくらいに心臓が音をたてる。 体内に走る熱で息苦しさを感じながら、和谷が口を開いた。 「……脱いじゃいなよ、もう」 「──え?」 「だって濡れちゃったし。いいじゃん、ここ風呂なんだから」 言いながら和谷は腕を伸ばして伊角の腰を抱き込むと、するりとその帯を解いた。 「ちょっと、ストップ! 和谷!」 和谷の動きを押しとどめようとした伊角が、はっとした表情を浮かべて手を止めた。 今さらながらに和谷が裸でいることに気がついたようで、その頬がみるみるうちに真っ赤に染 まる。 抵抗が緩んだすきに和谷は湯と本人の発する熱によって薄紅色に染まった胸元に唇を落とした。 「和谷っ!」 しっとりとした肌の上に唇を滑らせながら、濡れて貼り付いた浴衣の合わせを開いていく。 「ダメだって! やめろよ和谷!」 伊角の手が和谷の肩を押し返そうとするが、濡れた浴衣が絡みついて上手く動けないようだっ た。その間にも和谷は動きを止めず、伊角の躯がぴくりと跳ねた。 「…っ…!」 逃れようと伊角が後ずさったが、すぐに背中が縁に当たった。 「伊角さん、背中痛いでしょ?」 伊角の腰のあたりから浴衣の中へ手を滑らせて、そのまま引き寄せた。 素肌の重なる感触に、ざわりと全身が粟立つ。 触れているところから溶けていきそうな熱が、躯の中で飽和していた。 押し当てられた躯から和谷の熱を直に感じ取った伊角の頬がますます染まった。 「やめ…! 誰か来たらどうするん…だ…!」 和谷の肩を押す指が微かに震えている。 紅い頬で中途半端に脱げた浴衣を纏わりつかせているその姿が、和谷の熱を更に煽った。 「…伊角さん、ごめん。ちょっともう、無理」 「え、何言って…和…っ…!」 和谷は伊角の唇を自分のそれで塞ぐと、腕の中の躯に手を滑らせた。 ![]() illustration by HIBANA KUSAKA sama : Various fever 「…余ってるTシャツ、貸してやろうか?」 風呂場からずっと口をきいてくれなかった伊角がぼそりと呟き、和谷はバッグをあさっていた 手を止めて振り返った。 さすがに今度ばかりは当分許してもらえないのではないかと思っていたのだが、和谷に背を向 けて時計のタイマーをセットしている伊角の耳が赤く染まっているのを見て、和谷の口元が綻ん だ。 「伊角さん、もう怒ってない?」 膝をついたままにじり寄って腕に触れると、 「怒ってないわけないだろ」 すぐにその手を振り払われた。 「伊角さん、顔赤いよ」 「…怒ってるからだよ!」 和谷は唇を噛んで笑みがこぼれるのを押し止めた。 頬を染めた伊角は先程からやり方を熟知しているはずのタイマーのセットを何度もやり直して いる。 ──可愛いなぁ、伊角さん。 ニヤけてくるのを止められず、また振り払われるのを覚悟で背中に覆い被さるように抱きつい た。 「ねぇ、伊角さん。ごめんって。もう許して」 「あーもうウルサイ! さっさと服着ろよ!」 伊角は手を伸ばして自分のバッグからTシャツを引っぱり出すと、トランクス一枚の姿で背中 におぶさっている和谷の顔に押し付けた。 「ぶっ」 件の浴衣は部屋の風呂場に干されており、和谷の分の浴衣は当然というか伊角がしっかりと着 込んでいた。 ありがとう、とTシャツを広げようとした和谷の手がふと止まる。 ようやくセットの終わった時計を枕元に置いた伊角の腕を素早く掴んだ。 「どうしたのここ!? …あ、」 肘の少し下辺りに擦りむいた傷を見つけて咄嗟に掴んだのだが、すぐに原因が自分にあること に気がつく。 「ご、ごめん。本当にごめん!」 申し訳なさそうに伊角を見遣ると、軽く睨まれた。 「擦り傷のひとつやふたつできて当たり前だろ。…あんなとこでその、ああいう……」 ごにょごにょと語尾を濁しながら、伊角は和谷の視線から隠すように顔を背けた。浴衣の襟元 から覗いている項まで真っ赤に染まっている。 和谷は再び不穏な動きを始めた心臓の上を押さえた。 ──ああもう、だからそういう顔はヤバイんだって! 「…ねえ伊角さん。傷、痛くない?」 掴んでいる腕を引き寄せると、顔を背けたまま伊角が腕を引き返そうとした。 「平気だから離せよ」 「でも消毒しといた方が…」 「平気だって……っ…!」 伊角の躯が小さく跳ねるのと同時に、振り返って和谷を凝視した。 傷口に寄せていた唇を離して、和谷がニヤリと笑う。 「消毒」 「……!」 「ね、他には? どこ擦りむいた? 消毒しないと」 「ちょっ、乗るなバカッ! どけって!」 よろけて布団の上に仰向けに倒れた伊角の上に乗り上げながら、浴衣の帯の端を掴んで引っぱっ た。するりという帯の解ける音に伊角がぎょっとして和谷の手を押さえる。 「何考えてるんだ、おまえはっ!!」 「何って、いや、ホラ。俺、若いし」 「は!?」 逃れようともがくほど浴衣がはだけて、白い肌が曝されていく。 先程和谷自身が付けた薄紅色の斑が花びらのように胸に散っているのが目に映り、新たな熱を 呼んだ。 布地の下から手を滑り込ませて這わせると、まだ微かに余韻の残っていた伊角の躯もすぐに反 応し始める。 和谷の胸を力無く押す手を捕らえてその指先に口付けた。 自分の下で息を乱していくその姿に、頭がクラクラする。 ──やっぱり…。 「伊角さん、これから俺が一緒じゃないときのイベントで浴衣着るの禁止ね」 「なん…だよ、それ」 「浴衣なんか着て俺以外の奴、煽ったりしないでよ」 「…なに言っ…それより…ホントもうやめっ…」 「そんな顔されて止められるわけないじゃん」 明日こそ口をきいてもらえないのではないかという思いが頭を過ったが、今さら止めることの できないことは自分が一番良くわかっていた。 「ダメ、だってばっ! だいいち、布団汚したら…」 何とか和谷を止めようとする苦しい言い訳をすかさず却下する。 「それなら心配ないよ。ちょっと待って」 すでに力の入らなくなってしまっている伊角の上から少しだけ躯をずらして、和谷はバックの 中に手を入れた。 「ホラ」 「──何でそんなモン持って来てんだよ、和谷っ!!」 和谷が取り出したカラフルな箱を見て、伊角が真っ赤になって怒鳴った。 「しー、伊角さん。夜中なんだからさ」 沸騰してしまいそうな伊角に、人さし指を口にあてて見せる。 う、と声を詰まらせた伊角が、それでも押さえた声で喚いた。 「お、おまえなあ! 仕事に来るのになんでそんな物…」 「ああこれ今日休憩時間に土産物屋に一緒に行ったじゃん? あの時買ったの。温泉エキス配合 だってさ。変なの。あはは」 「変なのはおまえだろっ!」 「えー、そう?」 「──土産物屋はまんじゅう買うためにあるんだぞ!!」 それも違うと思うけど、と呟きながら和谷は目の前の滑らかな肌に唇を落とした。 湯煙に霞む星降る地── その夜は深く長く、静かに水面に横たわる。 甘い風を纏わせながら。
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