| 午後の陽に ノックしようとしていた手を止めてドアノブを回してみると、案の定ガチャリと鈍い金属音を 響かせてドアが開いた。 「まったく、カギ掛けとけって言ったのに」 独り言ちながらそのままドアを引き、中へと入る。 いくら今が昼間で男の一人住まいだからと云っても、物騒な世の中だ。よく言っておかなくて はと思いながらスニーカーを脱いだ伊角は、ただいま、と中へ掛けた声に返事がないのを訝しく 思い顔を上げた。 「和谷…?」 ひっそりとした室内に心持ち小さくなった声で呼び掛けてみるが、やはり返事はない。 右手に下げたコンビニのビニール袋の立てる音を纏りつかせながら部屋へと上がると、お世辞 にも広いとは言えない部屋の隅、ちょうど玄関から死角となる一角に見慣れた背中を見つけて力 が抜けた。 雑誌を枕代わりにして横たわるその肩が、規則正しくゆっくりと上下している。 ひとに買い物に行かせておいて、自分は昼寝とは。なんて奴だ。 気持ち良さそうな寝顔に思わず溜息が漏れそうになったが、そもそもこの使い走りは勝負に負 けた罰ゲームであるのだから勝利者である彼がどんな姿勢で待っていようが文句を言える筋合で はなかった。 「和谷、買ってきたぞー」 やはり自然と小声となって呼び掛けてみたが、彼の目蓋はぴくりとも動かない。 自分の声が空気の上を滑って消えると急に静けさが増したように感じて、置いて行かれた後の 所在なさのような、手持ち無沙汰のような、何とも落ち着かない気持ちがひたひたと躰を満たし た。 さっさと揺り起こしてしまおう。 だが伸ばした手は彼の肩に届く前に勢いを失い、宙を掻いて止まった。 緩やかな呼吸の音が、耳を掠める。 仕方なく畳に置いたコンビニの袋を脇へと押し遣ると、伊角は引っ張り出したタオルケットを 和谷の躰に掛けてやった。頭の下に敷かれた雑誌が寝心地悪そうだと思ったが、枕と差し換えた らさすがに目を覚ましてしまいそうなのでそっとしておくことにした。 つい先程までは揺り起こそうとしていたというのに、今はこうして息を潜めるようにして彼の 安眠を護ろうとしている自分がひどく可笑しかった。 彼が目を覚ますまで向こうで棋譜でも並べていようと思い立ったが、何故だかそこに根でも生 えてしまったかのように躰が動かず、諦めて穏やかな寝息を立てている彼の側へと腰を下ろす。 静かだな、と思った。 午後の陽射しの残る部屋は、時間の流れが緩やかに滞留しているような、不思議な温度の静け さに満たされている。 それはどこか甘く、どこか、切なくて。 重く額に掛かっている前髪を払ってやろうとして、やはりできずに浮いたまま空を掴んだ手を 元に戻した。 眼下の閉ざされた目蓋を見つめる。 何の夢を見ているのか、時折その喉が微かな音を漏らした。 こうして眠る顔は、まだ子供のあどけなさを残していて。 だが彼がもう、出会った頃の子供のままではないことを、伊角は誰よりもよく知っていた。 そう、誰よりも。 「……」 いつの間にか、鼓動を揺さぶられるような瞳を、表情を、声を、彼は手に入れていた。 「なまいき」 ぼそりと呟いた声がひどく甘く響いてしまった気がして、伊角の頬がさっと染まった。細く溜 息をついて逆の膝を立て、頬杖をついて静かに視線を和谷の目蓋へと戻す。 子供のような寝顔。それでも昨年よりもまた少し、丸みの落ちた頬。 「一緒に来ればよかったのに」 今度は、声には出さずに唇だけでそう呟いた。 一人でコンビニまで行って帰ってくる大して長くもない距離の間に、和谷の名前を三回、呼ん でしまった。 二回は途中で気付いて声を引っ込めたけれど、一回は誤魔化しようもなく、はっきりと。 なあ和谷、といつものように名を呼んで肩越しに振り返り、そこに彼の姿が無いことに頬を熱 くしたのだった。 失態への羞恥と、認識以上の依存への焦りと。 驚くほどの、寂しさと。 勝負に負けた悔しさよりも買い物に行く面倒臭さよりも何よりも、それが胸に堪えた。 手を伸ばし、そっと髪を撫でる。 「どうしてくれるんだ」 閉ざされている目蓋の上に、囁くように言葉を落とした。 いつの間にか、こんなにも弱くなってしまった。 大人になるにつれ少しずつ手に入れてきたはずの強さが、彼に向かうと少しも役にたたなくなっ てしまう。 この責任をどう取ってもらおうか。 そう心の中で呟き、さわさわと込み上げてきたくすぐったさに瞳を伏せた、その時。 「一緒に行けばよかった」 「!」 ふいにはっきりと告げられたその声に、驚いた伊角は口元の笑みを引っ込めて目を見張った。 パチリと開かれた目の前の瞳を呆然と見つめる。 「な…おまえ、いつから起きて…」 反射的に髪から離そうとした手を掴まれ、その体温に動きを縫い止められて息を呑んだ。 それほど力を込められているわけでもないのになぜか、振り払うことはできなかった。 「さあね」 悪びれもせずにそう答えて悪戯っぽく瞳を動かす和谷にドキリと胸が鳴り、それを悟られない よう急いで表情を取り繕う。 「起きたのなら起きたって言えよな。寝た振りなんて悪趣味だぞ」 「フリじゃないよ。寝てたもん。すっげー寝てた。ふて寝」 「ふて寝?」 実際に不貞腐れたように吐き捨てられた最後の言葉が引っ掛かって訊き返すと、 「そう、ふて寝」 やはりつまらなそうに答えて和谷は視線を逸らした。 買い出しに行かされたのは、伊角の方で。 彼の不満の元を見つけることができず、唇を尖らせ伏目がちに髪を掻き上げているその顔を伊 角は困惑に包まれながら見つめた。 理由を問う視線に気付いた和谷が、こちらが口を開くのよりも先に渋々と答えた。 「勝ったのは嬉しかったけどさ、伊角さんが出てったあとは結局…何かこう…」 ぼそぼそと呟くように話す声が畳の上に落とされていく。視線を逸らしたまま、どこか拗ねた ような顔で和谷が続けた。 「つまんねーし、気になるし、やけに部屋はがらんとしてるし」 先程までの自分の気持ちをなぞるような彼のその告白に、伊角は思わず瞬きを忘れて息を詰め た。 路地をひとりで歩きながら感じた寂しさが胸に返り、和谷の声に重なる。 「一緒に行けば良かったってずっと思ってて、仕方ないからふて寝してた。…何か俺こそ、罰ゲ ームみてぇ」 暖かな午後の陽射しがその上を覆い、畳の色を温めていくのを感じた。 「──何笑ってんの?」 拗ねたような顔を上げて眉を顰めた和谷に、 「さあね」 先程の仕返しとばかりに言ってやると、予想通りの表情が返ってきてますます笑みが深まった。 この可笑しさと胸を満たしていく温度を何と呼ぶのか、自分は知っている。 「おまえがちっちゃな子供みたいな顔するから」 笑みをこぼしながら告げてやると、和谷の顔がさらなる仏頂面へと変移した。 半分は本当だ。 「してねーよ!」 「ほら、そういう顔」 半分は、嘘。 同じことを考えていたなんて、悔しいから言ってやらない。 「一緒に行けばよかったな」 今度は、ごく自然に声となって出た。 和谷の胸に落ちたもの。 そして、この胸に落ちたもの。 それは全く同じものだとは言えないだろうが、それでもきっと、ひどく近しいもので。 微かに目を見張った和谷を見てもう一度髪に触れたいと思ったが、何やら急に気恥ずかしくなっ てきたので止めた。 それでもまだ胸には温かなざわめきが残り、伊角は誤魔化すように脇に置きっ放しだったコン ビニの袋の中身を意味もなく覗き込んだ。 「…あ」 ふと気付いて声を漏らすと、 「ん? どうかした?」 もう機嫌の直ったらしい和谷が、畳の上をにじり寄ってきて一緒に袋を覗き込む。 ほんの少し、肩が触れた。 「プリン買うの忘れた」 「マジで? もう一回行ってきてよ」 「おまえも一緒に来るだろ?」 「やだよ面倒くさい」 「おま…今言ってたことと違うじゃないか!」 その言い種に唖然として抗議したものの、目の前の彼はどこ吹く風という顔で前髪をいじって いる。 「ほら、早く行ってきてよ」 「…わかったよ行けはいいんだろ行けば」 小憎たらしい男を恨みがましく見遣りながら、伊角はしぶしぶと腰を上げた。 「今度はちゃんと中からカギかけておけよ」 再びごろんと横になって雑誌を読み始めた和谷にそう言い置いてから、スニーカーを履き玄関 を出る。 安普請のドアが閉まる音が、先程よりも少し傾いた緩やかな陽の中へと音高く響いた。 軋むアパートの階段を下りる足取りが自然と軽くなる。 じきに追いかけてくるはずの騒々しい足音を思い、伊角はひとり小さく微笑った。 電柱の陰にでも隠れておいて焦らせてやろうかとも思ったが、そんな自分も大概子供だと頬が 染まって、止めておくことにした。 アパートを背に、鋪道へと踏み出す。 そろそろだろうか。 スニーカーがアスファルトを踏む音に、頭上のドアが勢いよく開く音が重なった。 fin. ------------------------------------------------ (20061104) |
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