昨日までの理由





 「和谷?」
  呼ばれて自分の手が止まっていたことに気が付いた。
  顔を上げると同じく手を止めた伊角が不思議そうに見つめていた。
 「どうかしたのか?」
 「ううん。何でもない」
  一瞬跳ね上がった鼓動をごまかすように、和谷は慌ててジャラジャラと碁石を片付け始めた。
 「今日はもう遅いからまっすぐ帰ったほうがいいな」
 「…うん、そうだね」
  手を動かしながらちらりと前を見ると、碁石を集めている伊角の白い手が見えた。
  和谷はすっと視線をそらした。





  打ってる間は全てを忘れる。
  頭の中は黒と白の石と、縦横に走る線に支配されていた。
  空を切るような硬質な音の響きと、目の前の盤上に渦巻く静かで激しい炎のゆらめきと。
  それが全てだった。
  今までの自分は。

  本屋から出てきた和谷は大きく伸びをした。
  久しぶりに何の予定もない午後だ。
 「碁会所にでも行ってみるか」
  夕暮れ前の空の、やや緩やかな青が目に映る。
  表通りをぶらぶらと歩きながら、和谷は知らずため息をもらしていた。
  昨日の伊角との対局が頭から離れない。
  和谷の6目半、負けだった。
 「…マイったなぁ」
  ぽつり、とつぶやく。
  伊角に負けるのはもちろん初めてではないし、尾を引くような対局でもなかった。
  敗因はわかっているし、研修後の個人的な一局であり院生の順位を左右するものでもない。
  ため息の原因は他にあった。
  それがわかっているからこそ和谷は困惑した気持ちを持て余していたのだった。
  頭から離れないのは対局の内容ではない。
 「まずいよな、このままじゃ…」
  打っている間は石の行方しか頭にないはずだった。
  対局が始まるとスイッチが切り替わるように、他のことは全部頭から閉め出されるのだ。
  そう、今までは。
  和谷はシャツの胸のあたりをぎゅっと握りしめた。
  追い払おうとしても頭から離れないのだ。
  碁石をはさんだ細い指。
  落ちた前髪の陰からのぞく伏せられた目蓋の白さと──
 「対局中に何見てんだよ、オレ」
  集中していたつもりだったのに、こんなにも記憶に残っている。
  打ちながら無意識に見ていたのだ。
  いつからだろうか。
  気が付いたときには伊角を目で追うようになっていた。
  放課後が待ち遠しくなったのは、碁のためだけではない。
  少しでも一緒にいたい。
  そこには友情や尊敬などといったものとは別の想いが確かに存在していた。
  一緒にいたい。
  笑顔が見たい。
  声が聞きたい。
  そして…
 「…さすがにマズイだろ、それは」
  染まった頬を隠すために慌ててうつむくと、和谷は歩を早めた。





  目指す碁会所の看板を見つけて通りを横切ろうとした和谷は、数軒先のマクドナルドから出て
 来た人物を見て足を止めた。
  伊角だ。
  心臓がドキリと大きく鳴る。
  まだこちらには気付いていないようで、横顔を向けて立っている。
  久しぶりに見た伊角の制服姿は私服のときとはまた違った雰囲気があり、和谷は一瞬声をかけ
 るのをためらった。
 「なんかドキドキするな…」
  偶然の出会いに自分でも驚くほど浮かれているのがわかった。
  約束もしていないのに会うのには気恥ずかしさに似た嬉しさがあった。
  手を上げて走り出そうと足を踏み出す。
 「伊…」
  声が途切れた。
  伊角が微笑んだのがわかった。
  だがその視線の先に和谷はいなかった。
 「悪い、おまたせ」
  マクドナルドから出て来た男が伊角に並び、親しげに肩に手を置く。
  伊角と同じ高校の制服。
  ふたりは店の前に立ったまま、何やら楽しそうに話をしている。
  伊角は和谷よりも背が高い。
  その伊角よりもさらに上背のある男は、大人びた整った顔で伊角に笑いかけていた。
  胸の奥がざわりとした。
  和谷の上げられていた手が下へおりていく。
  院生の中では伊角は当然最年長で、年下の仲間たちに囲まれている姿に見慣れていた。
  こうして同級生と並んだ伊角はひどく幼く見える。
  頭を小突かれた伊角が、拗ねたような顔を男に向けるのが見えた。
 「……」
  何だろうか、この感情は。
  和谷は手をぎゅっと握りしめた。
  胸の中で重く苦しい何かがぐるぐると回っていた。
  冷水をかけられたように頭も手も足も冷たいのに、胸の奥深いところだけが息苦しいほど熱い。
  ふと男が和谷を見た。
  立ち尽くしている和谷を怪訝そうに見て、伊角の腕に触れる。
 「慎」
  和谷の目が見開かれた。
 「あの子、おまえの知り合い?」
 「え?」
  伊角が振り向く。
  和谷の姿を見とめて驚いた顔をした後、無邪気な笑顔を浮かべた。
 「あれ、和谷じゃないか。どうし…ちょっ、和谷!?」
  和谷は弾かれたように走り出していた。
  呼び止める伊角の声が遠ざかる。
  声が聞こえない所まで来ても足をゆるめずひたすら走った。
  肺が悲鳴をあげていた。
  だが、息がきれるのよりももっと苦しい何かが胸をつまらせていた。





 「くそっ!」
  投げた枕が壁に当たってボスッという低い音をたてた。
  どうやって家まで帰ってきたのか思い出せない。
  自室の床に座って壁を睨んでいた和谷は、呻きながら頭をかきむしった。
  見たことのなかった伊角の表情。
  大人びたあの同級生。
  和谷は机の引き出しをがちゃがちゃとあさって鏡を取り出すと、じっと覗き込む。
  まだ幼さの残る顔がそこにあった。
  長いため息が部屋に流れる。
  和谷はのろのろと立ち上がると落ちていた枕を拾い上げ、そのまま壁に背をあずけて座り込ん
 だ。
  ──慎。
  その声には呼び慣れた、自然な響きがにじんでいた。
  どうして自分が一番近い所にいるなんて思っていたのだろう?
  学校での伊角さえ、和谷は知らない。
  熱の塊が溶けながら細胞の一つ一つに染み込んでいくような重い痛みが胸の奥で疼いて、和谷
 は抱え込んだ枕に顔を埋めた。


  どれくらいそうしていただろうか。
  ずっと丸めていた背中が鈍い痛みを発していた。
  ふと、誰もいない家の中でインターフォンの音が鳴り響いた。
 「……」
  和谷は枕から顔を上げずにそれを無視する。
 「…ったく、しつけェな」
  またもや鳴ったインターフォンの音に仕方なく立ち上がる。
  こんな時間にやってくるのは新聞屋か何かだろう。
 「オレは今気分が最悪なんだよ」
  ドタドタと大きな足音をたてて玄関に行き、確かめもせずにいきなり乱暴にドアを開けた和谷
 は、そこに立つ人物を見て言葉を失った。
 「やあ」
  そう言ってややきまり悪そうな笑みを浮かべた伊角が、夕暮れの橙の陽を背に立っていた。
 「いきなり開けちゃ不用心だよ、和谷」
 「……」
  何の心構えもできていなかった和谷は、無言のまま伊角を見つめる。
  黙りこんだ和谷を前に、伊角は困ったように頭を掻いた。
  何度かためらった後、静かに口を開く。
 「なんか気になっちゃって…さっきの。予定きりあげてきちゃったんだ」
  脳裏に先程の背の高い男の姿が浮かんだ。
  胸の奥で鈍い痛みが広がる。
 「……予定って?」
  低い声でぼそりとつぶやく。
  和谷が言葉を発したのに安心したのか、伊角はほっとしたような顔を浮かべた。
 「いや、ちょっと映画見に行ってただけなんだけど、気が散ってダメだったんでオレだけ途中で
 出てきたんだ。後でアイツ、怒るだろうなぁ」
  そう言ってハハ、と伊角が笑った。
 「……」
  和谷の中で何か重くてドロドロとしたものが渦巻いていた。
  伊角は何も悪くないということくらいよくわかっていた。
  それなのに今こうして自分を前に屈託なく話す伊角に言い様のない怒りがこみあげてくる。
  半分開いたドアのノブを掴んだまま、和谷は視線を落とした。
  足下のコンクリートの床が冷たい色を放っていた。
 「…伊角さん」
 「ん?」
 「何の用?」
  自分でも驚くほど素っ気無い、低い声。
  伊角は一瞬動きを止めたが、すぐに口を尖らせた。
 「何だよ、その言い方は。和谷らしくないぞー。いったい何を怒ってるんだ? オレの顔見て逃
 げるなんて、これでも結構傷ついたんだぞ」
  いつもの口調に、伊角が和谷の中の渦に気付いていないのがよくわかった。
  和谷は顔を上げると、伊角をキッと睨んだ。
  だめだ、と頭の中で警告音が鳴り響く。
  今ならまだ引き返せる。
  友人としての伊角を失わずにすむのだ。
  今ならまだ。
 「和谷?」
  伊角が不安そうに呼び掛ける。
  向けられているその無防備な瞳。
  和谷は握りしめていた拳に力をこめた。
 「…オレらしいって何? 伊角さん、オレのことなんか何もわかってないじゃん」
 「……和谷…」
  立ち尽くす伊角の眉が切なげにひそめられるのを見て、和谷の中で何かが弾けた。
  もう、限界だ。
 「!?」
  和谷の手が伸びて伊角の腕を掴むと、開けたドアの間から中へぐいっと引っ張りこんだ。
  ふいをつかれてよろめくように玄関へ入った伊角を、そのまま閉じたドアへ押し付ける。
  呆然としている伊角に、和谷が押し出すような声でつぶやいた。
 「好きなんだよ」
  伊角の目が見開かれ、静止した。
 「オレ、伊角さんが好きなんだ」
 「……」
  全ての音が無に還ってしまったかのように、その言葉だけが誰もいない家の中で響いた。
  瞬きもせずに和谷を見つめていた伊角が、ためらいがちに口を開く。
 「オレは……オレも、好きだよ。和谷のこと」
 「弟みたいに?」
  伊角の言葉に被せるようにそう言うと、和谷はハッと口元を片側だけ上げて笑った。
 「違うよ伊角さん。オレの『好き』は…」
  掴んでいた腕を引き寄せる。
 「…こういう『好き』だよ」
  和谷の左手が伊角の顎にかかった。
 「!」
  柔らかな、感触。
  夢の中でしか触れることのなかった、愛しい柔らかな体温。
  和谷の顔が伊角からゆっくりと離れていった。
 「…少しはオレのことわかってくれた? 伊角さん」
  唇に手をあてて呆然と立ち尽くしている伊角に静かに問いかける。
  はっとしたように和谷を見た伊角の頬がみるみる染まっていった。
 「和、谷…こんなじょ…」
 「冗談で男とキスなんてできねェよ」
  はっきりと言われた生々しい単語に伊角は耳まで赤くなった。
 「でも…オレは…」
 「男だとか年が違うとか常識論なんて言うなよな。…オレだって悩まなかったわけじゃないぜ。
 でも、好きなんだよ。どうしようもないくらい好きなんだよ、伊角さんが」
 「……」
  沈黙が流れた。
  押し黙って目を伏せた伊角に、和谷は握った手に汗が滲むのがわかった。
  今ごろになって恐怖感がじわじわと胸に広がっていく。
  和谷は震えそうになる声を無理矢理押し出した。
 「…キモチ悪い? …もう友達やめる? 何か言ってよ、伊角さん」
  伊角がゆるゆると顔を上げた。
  困惑したような顔を和谷に向ける。
 「…まいったな…」
  ぽつりとつぶやかれたその言葉に、和谷の心臓がひやりと粟立った。
  終わり、なのだろうか?
  自分は伊角を…失ってしまったのだろうか?
 「…いやじゃなかったんだ」
 「え?」
  続いた言葉の意味が読み取れずに和谷が声をあげると、伊角の頬が再び染まった。
 「だから、いやじゃなかったんだってば。おまえにその…キ、スされたとき」
 「え?」
 「あーもう聞き返すなよそんなこと!」
  伊角が真っ赤に染まった顔をプイッとそむけた。
 「伊…角さん、それって…」
 「知るか。だからまいったって言ってるんだろーが」
  頭の中で伊角の言葉がぐるぐると回る。
  頬を染め伏目がちにうつむく姿を呆然と見つめていた和谷の顔がぱっと輝いた。
 「伊角さん!」
  飛びつくように伊角の両腕を掴む。
 「じゃあ、オレとつきあってくれんの!?」
  一瞬驚いたような顔を浮かべた後、伊角はますます顔をそむけた。
 「…あー…何だかなぁ。どうなってんだオレの人生は」
 「それってオッケーってことだよな? いやだって言ってももう遅いからな!」
 子犬のようにはしゃぐ和谷をちらりと見て、まだ頬の赤い伊角があきれたように言った。
 「だいだいつきあうって言ったってなぁ…。今だってしょっちゅう会ってるし、メシだって結構
 一緒に食ってるだろ? 別に変わらないじゃないか。いったいオレとどうしたいっていうんだ?」
 「──言っていいの?」
 「あ、いい、やっぱダメ。言うな」
  伊角があわてて制する。「何だわかってんじゃん」と不敵な笑みを浮かべる和谷に、伊角が小
 さくうめく。
 「ま、別に伊角さんがいやだって言ったってオレはもう止めるつもりはないけど?」
  ニヤッと笑って手を伸ばす。
 「伊角さん」
  和谷が伊角をそっと引き寄せた。
 「交際の第一歩として」
 「……」
 「とりあえず、もう一回」
  和谷が嬉しそうに伊角の顔を覗き込む。
 「…あーもう、どっちが年上なんだか…」
  情けなさそうにそう言いつつも、伊角はそっと瞳を閉じた。



 fin.



 Copyright(C)2002 Rikuya Nanase all rights reserved.



ヒカ碁初SS。なんかおかしなふたりになってしまいました(汗)。制服姿の伊角さんが見たかったんです〜(コミックスのオマケ絵?みたいなのに後ろ姿がちらっと出てたけど…)。
ちなみに出てきた伊角さんと同じ高校の生徒のイメージ、私の頭の中ではなぜか冴木でした(笑)

(2002.02.27)