温みゆく水、優しい頬





  それが夢であるということにはすぐに気がついていた。
 「会いたいと思ってた?」
  睫毛を伏せたまま静かに押し出された伊角の声が、柔らかな湯気に揺れる。どこか遠くから聞
 こえてきたようなそれは、和谷の耳に淡い音の残像を残して消えていった。
 「もちろん」
  応える和谷の声もまた、一枚膜を隔てたような遠い響きを纏っていた。
  終端の見えない広い湯殿のようなそこは、深い静寂に絡みつくような湯気と淡い陽に満たされ
 ていて、憶えの無い場所であるのにどこかひどく懐かしい気がした。
  二人の素肌を浸す湯も、染み込むように柔らかい。
 「いつも?」
 「いつもだよ」
  伊角さんは、と訊ね返そうとした時、ふいに背中から抱き込むようにして座っている和谷の腕
 に伊角の白い手が触れた。ちゃぷん、と温かな水面が揺れる。
  そっと何かを確かめるように肌の上を滑ったその手は、再び微かな水音と共にするりと湯の中
 へと消えていった。
  言いそびれた言葉も、一緒に。
  諦めて唇を閉じ、素肌の肩を撫でる黒い髪をそっと指先で掬い取ると、濡れて重たく湿ったそ
 れは何かの生き物のように艶かしく指に絡み付いた。
  寄り掛かってくる彼の重みも二人を包む乳白色の湯の温かさも全てが生々しく肌に纏わりつい
 てきて意識の境目を侵していく。だが、やはり夢の中であるということを不思議なくらいはっき
 りと和谷は自覚していた。
  肌を隠す白濁の水面に、伊角の白くて丸い膝小僧がぽっかりと浮かんでいる。
  記憶の中のものよりもそれはもっとずっと白いように思えた。
 「伊角さん、寒くない?」
 「寒くないよ」
  細い肩に手で掬った湯をかけてやると、伊角が小さく笑った。
  胸の一番奥の、柔らかな部分がぎゅっと絞られる。
  こんなにも近くにいるのにふいにどこかへ消えてしまいそうな気がして、黒い髪の貼り付いた
 彼の額を見つめた。
  胸元まで満ちている湯も触れ合う肌も、こんなにも温かいのに。
  言葉にならない固く微かなざわめきが体の内側をひたひたと這う。
  それは一人眠れず彼を想っていた頃の気持ちに、どこか似ていた。
 「和谷」
  静かに呼び掛けられて、はっと顔を上げた。
  それは穏やかで小さな声だったが、そこに含まれた響きの重さを直感で悟る。
  躯が、強張った。
  意識の逸れた和谷の指先から、絡めていた伊角の艶やかな髪がするりと逃げていった。
 「俺は…」
  続きを聞きたくなくて、後ろから掻き抱いたその薄い肩口に頬を埋める。胸を内側から押し広
 げるような恐怖に似た感情ごと、腕の中の躯を強く抱き込んだ。
 「言わないで、伊角さん」
  湿った温かな肌に額を押し付けたまま、情けないほど弱々しい声で呟いた。
  微かに震える手でしがみつくように包んだその躯はどこか捕らえ所のない儚さをたたえていて、
 やはりふとした拍子に消えてなくなってしまうような気がしてならなかった。
  それはこれが夢であるせいだからなのか、それとも別の何かであるのかは和谷にはわからなかっ
 た。ただ追い詰められたような焦りだけが和谷の胸を押し上げていた。
 「…言わないでよ」
  漆黒の髪が頬に貼り付く。
  つたい落ちてきた雫が、温く冷たい流れとなって和谷の頬を濡らした。





  どこか遠くで鳴っているように感じていた鈍い音が明確な形を持って鼓膜を刺激し、弾かれた
 ように飛び起きた。
  一呼吸分の空白の後にそれがこの部屋の木製のドアを叩く音であると認識する。
  まだ頭に纏わりついている靄を払いながら、和谷は慌てて目元に手を遣った。頬が濡れていな
 いことを確認し、肩から力が抜ける。
 「和谷、」
  小気味良いノックの音と共に。
  遠慮がちに投げられたドア越しの声に、心臓を弾かれた。急いで立ち上がって玄関へと向かう。
  何となく、まだ足元が柔らかく沈むような感覚が体を包んでいた。
  現実との境がぼやけてしまいそうなくらい鮮明に残っている夢の記憶に、少しばかりきまりの
 悪さを覚えてノブにかける手が一瞬、躊躇う。
  短く息を吸い込むと、水気を含んだ重たい霧が纏わりつくのを振り払うように和谷はドアを押
 し開けた。
  わ、という声と共にすぐ先で後ずさる気配がした。
 「いいかげん、インターフォン直してもらえよな」
  勢いよく開いたドアに驚いて軽く仰け反ったまま、彼は挨拶もせずにそう告げた。
  その声に含まれた温かさが、流れこんできた冷気よりも強く和谷の肌を覆った。
 「……」
  返事をしようとして開きかけた唇がそのまま止まる。
  目の前の、寒さに紅潮した頬と不思議そうに瞬きをする黒い瞳を黙ったまま見つめた。
  躯の奥から溢れるように湧き出てきたのは、声なんかではなく。
  夢の中で感じていたあのやりきれない切なさと、息を詰まらせる愛しさが熱の塊となって躯の
 内側を灼いた。
  このどうしようもないほどの苦しさを、何と呼べばいいのか知っている。
  無言のまま見つめてくる和谷の視線に戸惑うように、伊角が身動いだ。
 「用事、予定より早く済んだから来ちゃったんだ」
  どこか言い訳をするように呟いたその手のコンビニのビニール袋がかさりと揺れる。
  上目遣いに見返しながら、よかったよおまえが家にいて、と少し照れ臭そうにぼそりと続けた
 彼の頬の紅味が、ふわりと増した。
 「…っわ…!」
  腕を掴んでドアの内側に引き寄せた躯を、ぎゅっと抱きしめる。
  持ち手の無くなったドアが閉まる音を彼の肩越しに聞きながら、縋るように冷えた躯を抱いた。
  強く、強く、息を詰めて。
 「泊まって」
 「え?」
 「今日、泊まってって」
  乾いた髪が頬に触れる。
  白い首元に額を埋め、泣き出しそうに熱の滲んだ声で呟いた。掠れているのに、自分でも驚く
 ほど強い声だった。
  それはむしろ、祈りに近く。
 「…何だよ薮から棒に」
  少しの空白の後に、伊角がため息にも似た呼気を吐きながら呆れたように呟いた。そこに柔ら
 かく織り交ぜられた温かな熱の糸が、和谷の胸を優しく絡め取る。
  そう、これは祈りだ。
  ぎこちなく回された手が、宥めるように和谷の背中を撫でた。
  喉の奥が熱くなって、小さく息を吸い込み睫毛を伏せる。
 「そのヤブカラボーっておっさんくさいよ」
 「悪かったな」
  不貞腐れたように返され、二人はどちらからともなくクスクスと笑い出した。
  腕の中の彼が微かに安堵の息を漏らしたことに気がついて、もう一度、今度は優しく包むよう
 に抱き締める。
  静かに笑む気配と共に、伊角の腕も和谷の背をそっと抱き返した。カサカサとビニール袋の軽
 い音が鳴る。慈しむように、暖めるように、確かな力が和谷の背を包んだ。
  ふいに、温かな湯に身を浸していた感触が甦る。
  肌に絡む湯も視界を奪う湯気も、もうここにはなかったが。
  それでもきっと、ここにあるのだと思った。
  あの温かさに溶かしてしまうことのできない不透明な痛みは、手放せない想いがある限り、い
 つでもここにある。
 「伊角さん、」
  どこにもいかないで、と声にはできずに胸の内で呟く。
 「好きだよ」
  言葉なんかでは、足りない。
  それでも口をついて出た言葉に、和谷は目を閉じて祈った。
 「──明日講座があるんだ。ちゃんと起こせよ」
  答える代わりにそう告げて、優しい手が和谷の髪をくしゃりと撫でた。
  縋る手の強さの理由を問わない彼もまた、同じ痛みを胸に知っているのだと和谷は気がついた。
  喉を詰まらせる熱が躯の奥から込み上げてくる。
 「会いたいと思ってた?」
  ふいに落とされた問いに記憶の欠片が重なって、息を呑んだ。だがすぐに、緩やかに息を吐く。
 雲間から陽光が滲むように、自然と唇に笑みが浮かんだ。
  目を閉じたまま、遠い響きの無い、確かなその声に身を浸す。
 「もちろん」
 「いつも?」
 「いつもだよ」
  見えない伊角の唇にも同じ笑みが浮かべられているのを感じ、髪に指を差し入れて頭を抱き寄
 せた。
  触れ合った柔らかな頬はひやりと冷たくて、その下にある熱を想って和谷は固く目を瞑る。
  冷えた彼の髪から、澄んだ冬の匂いがした。










  fin.





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  お持ち帰りフリーです(…もらって下さるという奇特な方がい
  らっしゃれば…)。作者が七瀬りこだと明記して下されば転載
  等ご自由にどうぞv リンク、ご報告の必要はありません。日頃
  の感謝をこめて。
  (20050301)



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