摂氏40℃
いったい俺はここで何をやっているのだろう?
目の前でくるくると回されているフォークの先を見つめながら、真柴は噛んでいた人参ごとた
め息を飲み下した。
「真柴ってさ、独り暮らし?」
向かい側の席から何の躊躇いも感じられない、長閑な声がかかる。
「ええ。一応」
ぼそりと答えると、「へぇ、いいなぁ」と、やはりいたって脳天気な声が返ってきた。
この人はこの状況に違和感というものを感じないのだろうか?
眉を顰めて見遣ったら、不思議そうに瞬きをされて焦った。
どうかしたのかなんて訊かれたら困る。
教えて欲しいのはこっちの方だ。
「伊角さんは実家でしたっけ?」
「うん。だいいち俺、まだ無職だし」
そう言って微笑んだ顔に卑屈さは無く、数カ月後には同じ場所で肩を並べるのだという事実を
改めて実感した。
もうすぐ。
大広間で碁盤をはさんで向かい合う時がやってくるのだ。
戻ってくるのではなく、新たにやってくるのである。
あの頃とは確実に形を変えて。
「あ」
小さな声と共にフォークの動きがぴたりと止まった。
「…どうしたんですか?」
「スープのスプーン忘れた」
さっきストロー取りに行ったばかりじゃないか。
寝ぼけてるんじゃないですか、と言ってやろうと思ったのに、
「…いいですよ。俺、取ってきます」
何故か立ち上がっていた。
何をやっているんだ俺は。
らしからぬ行動への決まり悪さに早足に席を離れる。
「あ、悪い」
背中にかかった声はもちろん無視した。
+ + +
拍子抜け、とはこういう状態を指すのだろう。
棋院のベンチに腰掛けて缶コーヒーのプルトップを引き上げると、弾くような音が誰もいない
廊下に響いた。
大広間がある方に首を巡らせてみる。
本来なら真柴もその中で碁石を鳴らしている時間だった。
不戦勝。
それが今、真柴がこうしてベンチに座っている理由である。
今日の手合いの相手が欠席だったのだ。
何でも子供が熱を出したという話で、その知らせを受けたとき「ああそうか。同じ棋士でもそ
うやって母親をやってる人もいるんだな」と今さらながら感慨のようなものを覚えた。
結婚も、ましてや父親になることなどまだまだ遠い他人事だ。
コーヒーをすすりながらぼんやりとそのような事を考えていたら、ふいにそこから連想される
はずのない人物の顔が頭に浮かんで危うくむせ返りそうになった。
何でアノ人が。
ほとんど憤慨に近い思いで唇を噛む。
こんな日だからだ。きっと。
顔を上げて自動販売機を眺めた。
その向側の壁にもたれてジュースを飲んでいる和谷の姿が浮かんだ。
今日は和谷もここにはいない。今ごろ2つ隣の区でのイベントの真っ最中のはずだ。
プロに上がってきてからの和谷は変わった、と思う。
誰かと一緒にいる時の彼は真柴も知っている彼とそれほど変わってないように見えた。
だが時々ジュース片手に独りきりでそこの壁にもたれている和谷は、いつもどこかぼんやりと
していた。
誰かを待っているようでもあり──それでいて決して来ることのないのをわかりきっているよ
うでもある顔で。
あんな表情をする奴だっただろうか。
もともと院生だったころから虫の好かない男だと思ってはいたが、そんな表情を見ると思わず
舌打ちしたくなったものだ。
ぼんやりと缶を傾ける和谷に沸き上がる苛立ちと、微かに感じる勝利感にも似た想い。
うっとうしかった。
辛気くさい和谷の姿も、そんなことに気を取られている自分も、そして──その向こうにある
ものも。
「ちっ、馬鹿みてぇ」
立ち上がると空になった缶をゴミ箱に放り込んだ。
──『昨日の夜、伊角さんから電話があってさ』
大広間に戻って対局の見学の続きをしようという考えが頭の隅をよぎったが、すぐに消えた。
廊下を右に折れて、目の前のエレベーターのボタンを押す。
──『俺によろしく先輩って言うんだぜ』
「…俺の方が先輩だっつーの」
苦々しく吐き捨てた声と扉の開く音が重なった。
もうあんな表情の和谷を見ることもないだろう。
あの日を境に彼は再び変わったのだ。
ちょうど真柴が和谷と対戦したあの日、から。
ぼんやりと缶を傾ける姿は消え、対局が終わるとすぐに嬉々とした表情を浮かべながら跳ぶよ
うに帰っていく姿が残った。
そんな和谷に、アノ人はどんな笑顔を向けるのだろうか。
どんな声で。
どんな瞳で。
「……」
エレベーターの扉が開いた。
降りたところのすぐ側にあったゴミ箱を無性に蹴飛ばしてやりたくなったが、何とか踏み止ま
った。
躯の奥で解けない塊が胸を圧迫するような不快感に眉をひそめる。
きっとこんな日のせいだ。
和谷のいない──せっかくアノ人のことを考えなくて済むはずだった、こんな日のせいだ。
考えたくもないのに勝手に心が向きを変えてしまう。
いつも苛立ちを誘う、あの姿に。
その先にあるものがいったい何であるのかわからなかったし、わかりたくもなかった。
「…さっさと帰ってビデオでも見るか」
意識を強引に引き上げると、大股でロビーを横切る。
取りあえず家に帰ったら碁盤も部屋の隅に押しやっておこう。
忘れたい。
こんな日くらい。
その時ふいに脇から出て来た影を視界の端で捕らえた。
正面のドアだけ見て進んでいたために不意を突く形になり、真柴は慌てて身をかわす。
目の前で漆黒の髪が揺れた。
息を飲んだ真柴の心臓を何かが撫でる。
固いはずの床が急に毛足の長い絨毯に変わったかのように感じた。
「すみませ…」
動きを止めた唇が、そのまま「真柴?」と名を紡いだ。
ロビーの蛍光灯が小さく反射している瞳が見開かれる。
髪と同じ、漆黒の瞳。
それから素早く視線を逸らした真柴は内心で舌打ちをした。
最悪だ。
こんな至近距離で遭遇してしまったら気づかなかったふりもできやしない。
何でこんなところになんているのだろう? よりによってこの人が。
それが自分勝手な非難であるとはわかっていたが、それでも腹が立ってくるのを止められなか
った。
会いたくなんかなかったのだ。──本当に。
「久しぶり。今日は手合いじゃないのか?」
ぎこちなく、それでも微笑んで見せる姿が一層腹立たしさを煽る。
そんな微笑みに1グラムだって想いなんか込められてないくせに。
ポケットの中で拳を握りしめたとたん、自然と唇が動いていた。
「…和谷ならいませんよ」
滑り出た言葉に自分自身ではっとする。
きょとんとした目の前の顔を見て汗が滲んだ。
「ああ、うん。知ってる」
不思議そうに返された言葉に胸の奥がちくりと痛みを発した。
我ながら馬鹿な質問をしたものだ。
知らないわけがないのに。
「今日はちょっと書類を出しに来たんだよ。真柴は?」
「…手合い、相手が欠席で無くなって」
ぼそぼそと告げると「そうか」とまたぎこちない微笑みが返ってきた。
少しの沈黙。
それに続く言葉が別れのものであることを予感する。
見えない何かに急かされるように、真柴は思わず口を開いた。
「メシ。食いに行きませんか?」
「え?」
「昼メシ。まだだったら」
言ったそばから後悔が押し寄せてきた。
握りしめている手の平が汗で湿る。
心臓の音がやけに大きく感じて息苦しかった。
「いいよ。ちょうど腹へってたんだ」
あっさりと返ってきた言葉に手から力が抜けた。
その瞬間胸の奥を掠めた暖かい何かを、更に深いところへと無理矢理に押しやった。
それが再び浮上してくる前に、口の端だけ上げて笑って見せる。
「オゴりますよ。一応、合格祝いってことで」
「え、いいよそんな」
慌てて手を振る姿に目を細めた。
予想通りの反応に少しだけ落ち着きを取り戻す。
「遠慮する必要なんかないですよ。俺、2年も前から社会人やってるんですから」
後半にわざと力を込めてやると、一瞬だけ目の前の漆黒の瞳が揺れた。
でもそれはほんの一瞬で。
「じゃあお言葉に甘えておごってもらっちゃおうかな」
楽しそうに笑んだ瞳に、重くて乾いた何かを飲み込んでしまったような気分になった。
そんな微笑みなんて望んでいないのだ。
そんな、単に真実を反芻してみせただけのような揺らぎなんて。
「どこか美味い店、知ってる?」
もっと深く。
いっそその瞳に憎しみをたたえるくらいに。
そんなふうに透明ですらない微笑みなんかだったら。
「伊角さんは? どこか知ってます?」
並んでドアの外へと踏み出すと、乾いた風が髪を揺らした。
+ + +
セルフサービスのカトラリー置場からスプーンを取ると真柴は足を止めた。
こうして昼食を誘ったのは自分だというのに、むず痒いような違和感が纏わりついて離れない。
考えてみなくても院生時代にだって伊角と二人きりで食事なんてしたことがないのだ。
そもそも友人と呼べるような間柄でもない。
真柴にとって伊角はいつも意味もなく苛々させられる相手だった。
それはきっと、彼の碁が自分の上をいくものであることや、真柴には「胡散臭い」と感じるほ
ど周囲の院生たちから慕われていることなどが起因していた。
──はずである。そうでなくては説明がいかないのだから。
スプーンを手に席に引き返すと、伊角はぼんやりと窓の外に視線を向けていた。
その横顔を眺めながら、真柴はゆっくりと歩を進める。
何を、考えているのだろう。 ──誰のことを?
今ここにいない年下の少年の姿が胸を掠める。
伏目がちに缶ジュースを飲んでいる姿ではなく、伊角の側で声を弾ませている姿が。
そして、牽制するように真柴を睨む姿が。
「はい、どうぞ」
思いのほか強い声が出たことに動揺する。
これでは、まるで。
「あ、ああ。ありがとう」
意識を引っぱり戻した伊角が微笑んだ。
ちくり。
また胸の奥が痛む。
「伊角さんて案外ぬけてるんですね」
「んー、よく言われる」
誰にだよ。
いやみのつもりで言った言葉が思わぬ刃を抱いて返ってきてしまった。
今までの微笑みと違ってそのはにかんだ笑みがある温度を孕んでいることが一層気に触った。
誰に言われているかなんて、わかりすぎるほどわかっている。
曖昧に相づちをうちながら器用そうな細い指がフォークを回しているのを眺めた。
その淀み無い動きに反して、肝心のスパゲティは一向に纏まらない。
フォークが持ち上げられると、出航する船に投げられたテープの群のようになって絡まった。
碁盤をはさむでもなくしてじっくりと向かい合っていたことがないので今まで気づかなかった
が、こうして間近で見ると伊角はだいぶ想像と異なっていた。
アイツがいつも見ているのはこういう「伊角」だったのだな、とぼんやりと思ったら口を開い
ていた。
「世話をしてるようで実は世話されてるんでしょ」
「え?」
「…いえ、何でもないです」
見た目だけ器用そうな手を止めて顔を上げた伊角から視線を逸らす。
育ちの良さそうな所作のせいで誤魔化されていた一面を知って何だか呆れてしまった。
ほんの少しだけ、くすぐったいような気もしたが。
それを打ち消すように別の話題を引っぱり出した。
「プロ試験、全勝だったそうじゃないですか」
一瞬の間をおいて、伊角が小さく頷く。
「うん。そうなんだよ」
はにかんだ伊角の白い頬が薄らと染まった。
照れくさそうに。そして少し誇らし気に。
なんだ、と真柴は胸の内で呟いた。
デタラメに選んだつもりだった質問。
意図なんてなかったはずなのに。
敗北感に似た想いがじわりと染み渡っていく。
なんだ──結局この顔が見たかったんじゃないか。
コーヒーカップに伸ばした指先が、微かに震えた。
+ + +
レストランから出て腕時計に目をやると、思った以上に時間が経っていた。
「ああ、もうこんな時間か」
同じように腕時計を眺めた伊角が呟いた。
腕が触れそうな距離が何だか落ち着かなくて、真柴はバッグを持ち直すフリをしながら半歩ほ
ど離れた。
それでもまだ落ち着かなくて、意味もなく髪をかきあげる。
早く別れたいのに、別れの言葉が喉につかえて出てこなかった。
「それじゃあ、また」
口にしたのは伊角の方だった。
その言葉を聞いたとたん、もうこうして二人で会うこともないだろうというわかりきっていた
はずのことが、まるで新たな真実を突き付けられたかのように胸にストンと落ちてきた。
伊角の隣にはいつものあの姿が戻ってくるのだ。
ふいに沸き上がってきた重たい波に目眩がした。両の拳を握りしめる。
するりと言葉が滑り出た。
「伊角さんと和谷って、」
途切れた質問に、伊角が不思議そうに瞬きをする。
伊角さんと和谷って──
何を訊くつもりなんだ?
指が白くなるほど拳を握りしめる。
背中を冷たい汗が一筋流れ落ちていった。
「俺と和谷が、何?」
和谷、という単語を紡いだ唇が、唐突に綺麗だと思った。
その瞬間、胸の奥で何かが融解していく音を聞いた。
息をそっと吸い込む。
「──喧嘩したりするんですか?」
「…するよ。しょっちゅう」
一瞬きょとんとした後、伊角が笑う。
これでよかったのだ、と思った。
口にするはずだった本当の質問が頭の隅を掠って消えた。
これでよかったのだ。
「じゃあ。新初段シリーズ、プロ試験全勝の腕が披露されるのを楽しみにしてますよ」
口の端だけを上げて笑う。いつものように。
「はは、やめてくれよ。…じゃあな」
軽く手を上げながら伊角も微笑んだ。──いつものように。
予想と寸分違わぬ動作で伊角が背を向けた。
「伊角さん」
歩き出していた伊角が足を止める。
振り返った拍子に漆黒の髪がさらりと揺れた。予想よりも鮮やかに。
「合格おめでとうございます」
平淡な声で告げる。
1グラムだって想いなんか込められていないのだから。
軽く目を見張って真柴を凝視していた伊角の目元がふいに緩んだ。
そのまま、ふわり、と笑った。
見たことの無い色を乗せて。
深く、花が咲きこぼれるように。
「ありがとう」
──卑怯だ。
胸の内で呟く。
そんな笑みなんて。──温度のある何かなんて。
「…卑怯だよ」
雑踏に消えていく背中に、唇だけを動かしてもう一度そう呟いた。
fin.
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