伝える指





  神域、という言葉の持つ見えない力が空気の中に染み渡っているのを肌で感じる。
  特別信心深いわけでもなければ、ましてや古い伝承の知識などほとんど持ち合わせてもいなかっ
 たが。
  それでも感じる何かは、普段耳にしないこの音楽や厳かな人の群れのせいだけではないように
 思えた。
 「──願いが…」
 「え?」
  無意識にこぼれた言葉に、隣を歩く和谷が不思議そうに視線を上げる。
 「願いが溢れているからかな」
  ますます怪訝そうに眉を顰める和谷に小さく笑いかける。
  たくさんの人の、たくさんの願い。
  それが溢れるこの境内には、身体を透かされるような凛とした空気が確かに存在していた。
  案外、神域なるものは境内という形あるものなんかではなく人の念がつくり出すものなのかも
 しれない。
  お参りの列に加わりながら、ぼんやりとそう思った。
 「知ってるか、和谷? 本当に神様に願い事をきいて欲しかったらちゃんと神様にもわかる古代
 語で願わないといけないんだってさ」
 「何それ。そんな言葉知らねぇよ。伊角さん知ってんの?」
 「知ってるわけないだろ」
  答えると、和谷が複雑な表情を浮かべた。
  半分開いた口が何とも間が抜けていておかしい。
 「──じゃあ伊角さんはどうやって願い事すんの?」
 「どうって、普通に」
  複雑さの度合いが深まった顔で、和谷が小さく溜息をもらす。
 「何だよ?」
 「いや、別に。伊角さんだなぁって思っただけ」
  慣れてるけどさ、と呟くその声に呆れの色が漂っている気がしてならなかったが、ふと昨年の
 今頃の自分達の姿が頭を過って抗議の意志を拭い去った。
  ゆっくりと進む人波の中で、白い息を吐く和谷の横顔。
  腕が触れるほど、すぐ隣で。
 「…やっと願い事が変えられるよ」
  ポツリと呟くと和谷の視線が再びこちらへと向けられた。
  今度は問いを含んだ瞳ではなく、そこには深い色が静かに揺らいでいる。
  この瞳を真直ぐに見つめ返すということ。
  戻って来れた。
  ここへ。
 「──うん、そうだね」
  何も訊ねずに和谷が相づちを打った。
  彼も同じことを思っていたのかもしれない。
  否、もしかしたら伊角以上にその重さを噛み締めていたのかもしれなかった。
  そうさせているのが自分だと思うと、やるせなさに胸が詰まる。
  試験に合格しますように。
  必要のなくなったその祈り。
  一昨年はこうして二人で同じように祈った。
  そして、会う事すらしなかった昨年。
  視線を絡めたまま、静かな笑みを交わし合う。
  その濁りのない微笑みは見慣れたものであるのに、伊角が知っているそれよりもほんの少しだ
 け大人びているように思えた。
 「寒いな」
 「そうだね」
  出てきた言葉はそんな意味のないものだったけれど。
  微かに目を細めて笑う、和谷の笑顔が好きだと思った。
 「ほら、伊角さん。俺らの番だぜ」
  賽銭を投げ入れ、並んで手を合わせる。
  ちらりと視線を走らせると、目を閉じて祈る和谷の横顔が映った。
  じわりと胸に広がる暖かな波の中で、伊角も睫毛を伏せる。
  まだこうして願い事をする自分はきっと欲張りだ。
  言葉を唱える直前に、そんな想いが胸を過っていった。







 「で、伊角さん。何てお願いしたの?」
  遠ざかる喧噪を背に、和谷が落ちてきたマフラーを直しながら声を弾ませた。
  何かを期待しているその姿に、不覚にも微かに頬が熱くなるのを感じる。
 「秘密」
 「えーいいじゃん、教えてよ」
 「何ニヤニヤしてんだよ。おまえとは関係の無い願い事だよ」
 「ふーん」
  ますます楽しげに笑みながら覗きこむようにしてきた顔を押し返した。
  こんな時、察しの良すぎる和谷には困ってしまう。
  そしてそんな和谷に振り回されている自分が嫌いではないということに、とうに気がついてし
 まっているのだから弱ったものである。
 「じゃあ、そういうおまえは何てお願いしたんだ?」
  追求から逃れようと逆に訊ねると、意外にも視線を逸らした和谷の頬が染まった。
 「んー…秘密」
 「──何だよ、気になるじゃないか」
 「伊角さん、知ってる? 願い事って本当に叶えたかったらヒトに話しちゃいけないんだぜ?」
 「おまえが先に訊いてきたんだろ!」
  そうだっけ?と空とぼける和谷の頭を軽く小突く。
 「ま、いいじゃん。叶ったら教えてあげるよ」
 「じゃあ、俺も叶ったら教えてやるよ」
  何となく悔しくなって言い返すと、和谷が小さく噴き出した。
 「そんじゃ、約束ね」
  笑いながらそう言われ、頬に熱が上がる。
  これではどちらが年上かわからない。
  和谷が思わせぶりな態度を取るからだ、と取りあえず人のせいにしてみたが、本当は言い訳な
 ど必要がないことは重々承知だった。
  相手が和谷である限り、自分には理由も何もいらないのだから。
  ふいに冷えきっていた指に同じく冷えきった指が絡められて、伊角は自分の左手を眺めた。
 「和谷、」
 「ほら、ここもう神域じゃないし。お正月だし」
  何やら今一つ納得のいかない言い訳だったが、子供のように笑ったその顔があまりに嬉しそう
 で怒る気が失せる。まぁ正月だしな、と和谷と同レベルの言い訳を自分にしながら許すことにし
 た。
 「さっさと叶えて早く教えろよ」
 「もちろん。…て言っても叶えるには伊角さんの協力が必要なんだけど」
 「は?」
  えへへ、と和谷が不敵な笑みを浮かべる。
 「そういうわけなんでご協力お願いしまス」
 「──それじゃおまえの願い事、叶えるの無理だな」
 「何だよそれ!」
  口を尖らせる和谷に、伊角は声を出して笑い出した。
 「絶対、叶えてやるからな!」
 「はいはい」
 「意地でも協力させてやる!」
 「やれるもんならやってみなー」
  わざと意地悪気に言ってやったが、笑いながらなので今一つ効果が出ない。
  膨れっ面をしていた和谷の口元にも笑みがこぼれた。
  額を突き合わせるようにしてくすくすと笑い合う。
 「どんな願い事か知らないくせに」
 「知らなくても嫌な予感がするからパス」
  ああ、どうしてこんなにも和谷の笑顔は特別なのだろうか。
  つられたようにこの胸の奥から沸き上がってくる微笑みが、単に意味のない発作のような笑み
 だと思ってくれればいいと願ってしまう。
  本当の意味を知られてしまうのはやはりまだちょっと照れくさいのだ。
  もう少しだけ、卑怯な自分でいさせて欲しかった。
  どうせすぐに伝わってしまうのだから。
 「和谷、」
 「何?」
 「今年もよろしくお願いします」
 「何だよ、それ。当たり前だろー」
  噴き出した和谷が、それでも「こちらこそよろしくお願いします」とペコリと頭を下げる。
  溢れる笑みと、柔らかな想いと。
  そしてほんの少しだけ──痛み、と。
  嬉しさと苦しさは哀しいくらい似ていて、それだからこそ胸に染みるのかもしれなかった。








  絡めた指がいつの間にか暖かくなっていて、和谷もそれに気づいてくれればいいと思った。










  fin.





たまにはイベントものを!と思ってお正月ワヤスミを書いてみました。…間に合ってないなんていうツッコミは無しの方向で(痛)。てゆか書き出したのがすでに4日になってからっていうのが…ごにょごにょ。
伊角さんプロ試験合格後のお正月、という二人にとって大事なトコロだというのにこんなやっつけ仕事でいいのか自分、と新年早々反省しつつ。
皆様、今年もどうぞよろしくお願い致します〜!

(2003.01.04)