遠い夏
「伊角さん、こっち!」
八月の、目に痛いほど青い空と、振り返り名を呼ぶ白いシャツの少年。
背より少し高い向日葵の咲く、緩やかな坂道。
近くの民家から聴こえる、風鈴の音。
既視感、否。押し寄せる、記憶の波。
暑さと坂道に疲れたフリをして目を閉じ、息を吐く。
「何?もうバテたの?ホント爺臭いなぁ、伊角さんは」
「余計なお世話」
近づいて来たからかう様な声に言い返して目を開けると、わずかに目線を下げた先に見慣れた
笑顔。
あの時は見上げてた。
必死に記憶との差異を見つけようとする自分に苦笑が漏れた。
「どうしたの?」
「何でもないよ、和谷」
名前の部分に、少しだけ、力を込めた。
坂道を登りきると、緑深い小さな公園。
「東京もちょっと外れるとまだまだ緑があるもんだろ?伊角さんこーいうとこ好きそうだからさ」
――お前、こういうの好きだろ?
変わらないままの風景に、眩暈をおこしそうになった。
「こんなとこ、よく知ってたな」
「あー、うん。つっても、俺も初めて来たんだけどね。いいとこだからって、教えてもらったん
だ。でもさ、ホント、良くこんなとこ知ってたよな、冴木さん。あの人と公園ってスッゲェ似合
わなくねぇ?」
「……そうか?」
あの夏、あの人の白いシャツは、青と緑に良く映えていたよ。
まだ黒かった髪も、あの頃の俺にはひどく大人びて見えた笑顔も。
伊角、と呼ぶ声も。
この空間に、とてもとても似合っていたよ。
お前は知るはずもないけれど。
何を思って、あの人はこの場所を和谷に教えたのだろう。
「気に入った?伊角さん」
「…うん」
頷くと、ほっとしたように笑う。顔立ちは似ても似つかないのに、浮かぶ表情が、ほんの時折
はっとするほど似ている。
「あ、あそこにベンチがある。座っててよ、オレなんか飲むモン買ってくるから。」
財布だけ抜き取ったカバンを押し付けて慌しく走り去る背中に苦笑して、言われた通りに木の
陰の古いベンチに腰を下ろす。登校日の中学生のカバンは軽かった。
和谷には嘘を吐きたくない。だから、来たことがあるかと聞かれたら、正直にあると答えよう。
回数も尋ねられたら、三回目、と。
まもなく、缶ジュースを抱えた和谷が戻ってきた。
「自販機、近くにあったのか?」
「うん。そこの角」
五年前は、ちょっと待っててと言ったままなかなか帰らなかったあの人に、随分不安になった
のに。
変わらないように見えたものの中の些細な変化に安堵する。
あの人はこのことを知ってるだろうか。
「やっぱり、兄弟弟子って似るものなのかな?」
「え?兄弟弟子って、オレと冴木さん?似てる?そんなに」
俺の隣に座った和谷が、不思議そうに首をかしげる。仕草が年より幼く見えるところは、似て
いないと思う。
「人の世話焼くのが好きなとことか」
俺なんかをほっとけないとことか。
「んー、俺一人っ子で兄弟欲しかったし、冴木さんは次男坊で弟欲しがってたから、なんてーの?
需要と供給が一致したかんじ?」
「難しい言葉知ってるな、和谷」
「もー、すぐガキ扱いする!あー、俺も弟分ほしー!先生、新しい弟子とらないかなぁ。」
空を仰いでぼやく和谷に、重なる姿。
――お前、よく二人も弟相手できるなぁ。俺なんか、弟弟子一人どう扱えばいいかわかんねー
のに。
「進藤がいるじゃないか。なかなかいいコンビだと思うけど」
「えー、やだよあんな生意気な奴」
「弟ってのはそういうもんだよ」
木々のざわめきに、笑い声が混じる。
五年前、そんな余裕はどこにもなかった。
それは自分が成長したからなのか、それとも単に、隣にいるのが和谷だからなのか。
「なあ、伊角さん」
青い青い空を見上げたまま、真面目な声で和谷が言った。
「頑張ろうぜ、明日からのプロ試験」
「…そうだな」
神経質になる自分を連れ出してくれた、よく似た二人。
「今年こそ、受かろうぜ」
「ああ。お前は大丈夫だよ。十五歳は、森下門下の当たり年だから」
「何それ。あ、そっか、冴木さんが受かったのも中三のときか。五年前、うん、覚えてる。」
和谷が院生になった年だった。
「試験終わったらさ、またここに来ようぜ」
「ああ。秋は、紅葉がきれいだろうな」
五年前のように。
二回目に連れて来られたこの場所で、はらはらと舞い落ちる赤と黄色を、今も鮮明に覚えてい
る。
向けられた言葉も全部。
自分が告げた言葉が、あの人の喜びを削いでしまっただろうことも。
今年こそ、笑って向き合えるだろうか。
きちんと言えなかった祝福も、言えるだろうか。
待っていると言う相手に、待ってもらわなくても追いついて見せると強がったまま、五年も経っ
てしまった。
もう振り向きはしないだろう。
彼の女性関係については、弟弟子である和谷から時折聞かされた。
それでもかまわない。
手をつないだだけで泣きたくなるほどだった幼い頃に、戻れないことは知っているから。
「和谷」
「何?」
立ち上がって振り返る。
「ありがとう」
またここに連れてきてくれて。
カゲロウのように揺らめきながら、それでも忘れることのできないあの夏の日、息が詰ま
るほど、確かにしあわせだったこと。
前に進むために別れることを決めた、鮮やかなあの秋の日、呼吸の仕方も忘れるほど、本
当に切なかったこと。
今年こそ、きちんと伝えられるだろうか。
あの人へ。
「ありがとう」
fin.
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