雨に滲む





  前髪を伝い落ちてくる雫が目に入り、濡れたアスファルトを蹴るように走っていた足の速度が
 緩んだ。
  交差点の先にあるコンビニで傘を買おうかとちらりと思ったが、ここまで濡れてしまったのな
 ら今更だとすぐに思い直す。
  もうすでに制服のブレザーはじっとりと重たく水を含み、中のシャツまで湿っていた。
  どうせ大したことはないだろうと甘くみて帰路を急いでいた途中で、まさかこのような本降り
 へと変わるなんて。
  ついてないな、と肌を打つ強い雨足に眉根を寄せる。
  雨を避ける所もない住宅街を駆け抜けて漸く屋根のたち並ぶ辺りまで辿り着いたのだが、もう
 それも既にどうでもいいことだった。
  春の香りに湿った雨は、角の落ちた柔らかな粒なのに染みるように肌を冷やしていく。
  緩めてしまった足を再び速めようとするのに何故か気力は萎え、ついには走るのを止めて歩き
 出してしまった。
  絶え間なく降り注ぐ雨に打たれながら、煙る足元へ視線を落として惰性のように足を動かす。
  諦めと云うには少しだけ重い何かが水を含んで躯を覆った。
  それは胸の奥を塞いでいる煮え切らない想いにどこか似ていた。
  少しずつ体温が雨の中へと逃げていくのを他人事のように感じながら緩く瞳を伏せると、目蓋
 の裏には河合の姿が浮かんだ。
  胸の奥に、チクリと痛みが走る。
  信頼と、依存。
  浮かび上がったその言葉は準太の吐く息をますます重たく湿らせた。伸びた前髪が額に貼り付
 いて、気持ちが悪い。
  河合に対して自分はいつも、全幅の信頼を寄せていた。
  揺らぐことなくあのミットに。肩に、瞳に。
  心に。
  甘やかされているという自覚はあった。
  誰にも踏み込ませない領域を維持しているという、プライドも当然持ち合わせてはいた。
  それでも強すぎる敬意は時として軸を狂わせ、依存へと傾きそうになる。
  そしてその言葉だけではおさまりきらない何かから目を逸らしてきたことくらい、十分すぎる
 ほどわかっていた。
  河合には甘やかされ、後輩としても彼の投手としても少々過ぎるほど大事にされてきた。
  愛されているのだ、と思う。
  だがそれは決して、恋慕ではなく。
  では自分は、というと、そこには見てはならないものがあるような気がしていつも目を伏せて
 やり過ごしてきたのだ。
  それでも心が引きずられるままにその深淵へと視線を向けようとするといつも、後ろから投げ
 られる冷ややかな声に胸を刺され、阻まれた。
  目蓋の裏に浮かんでいた河合の姿が消え、別の姿が像を結ぶ。
  出会った時から、あの男が嫌いだった。
  薄笑いを浮かべながら見透かすような目で準太を見て、触れて欲しくない処へ平気で鋭い言葉
 を投げ込む。ひとの心を掻き回しておいて、あっさりと背を向ける。
  それなのに、独りきりで追い詰められて立ち尽くしてしまいそうになる時はいつも、気づいた
 ら後ろにいて逃げ道を作ってくれていた。それはあまりにも自然で、あまりにも当たり前のこと
 のようで。
  暖かい言葉も優しい腕も何も与えられはしなかったが、それでもその度にひどく救われた気分
 になったことを、彼はきっと知っている。
  知って、いるのだ。
 「和己はやめときな」
  あの日、彼は唐突にそう言って唇だけで笑った。
 「追い掛けたって、傷つくだけだぜ?」
  フェンスにもたれて手の中のボールを弄びながらそう告げ、準太の視線を受けて気怠そうにも
 う一度ゆるりと笑った。
  その瞳は少しも笑ってなどなく、視線を逸らしたらすぐに躯の奥底に隠していたものを全て引
 きずり出されて晒されてしまうような気がして、準太は伏せそうになる瞳を無理矢理引き上げて
 見つめ返した。
 「…どういう意味ですか?」
  平静を装いつつも返した声が微かに揺れてしまったのは、心の奥深くを抉られたのをはっきり
 と感じたからに他ならなかった。
  上手く息が出来ず、心臓がギシギシと痛みを訴えては乱れた鼓動を響かせた。
  彼の手の中でボールが緩やかに回り、そして、止まった。
 「あいつの周りを囲う常識やモラルの壁は思っている以上に厚くて堅固だっていう話だよ。どう
 せおまえだってそんなことくらい、とっくに気づいてるんだろ?」
 「だから、どういう意…」
 「俺にしとけって言ってんの」
  殴られたように、一瞬、全ての音と色が消えた。
  じわりと戻ってきた視界に映った目の前の瞳はやはり、少しも笑ってなどいなかった。
 「…意味が…わかりません」
  カラカラに乾いた喉の奥から押し出した声はみっともなく震えていて、堪えきれずに準太が睫
 毛を伏せると、
 「わからないなら何度でも言ってやるよ」
  緩やかな笑みの滲んだその声が、確かな質量を伴って躯の奥へと落ちていくのを感じた。
  そしてそれはまだ、準太の胸の奥で拭えない重たい澱となって沈んでいる。
  やはり、あの男が嫌いだと思った。










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 (20050502)



  









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