「準太」 心の内を読まれたように突如投げられた声に躯がビクリと揺れ、弾かれたように顔を上げた。 今しがた心に思い描いていた人物と重なったその声に一瞬耳を疑ったが、傘を差し道路を横切っ てこちらへと走ってくる姿は確かに彼のものだった。今まで立ち寄っていたのか、この近くにあ るブックセンターの名前の入った包みを脇に抱えている。 「…慎吾さん」 「何してんだよ、おまえ」 眉根を寄せて苛立ったように島崎が声を上げた。 そこに露に含まれた咎める響きに、準太は急に自分の状況を思い出して視線を逸らした。 彼にだけは、見られたくなかった。 忘れていた肌を伝う雨の冷たさがふいに甦り、小さく震える。 自分の中の弱い部分を晒してしまったような気がして、いたたまれなさに胸が軋む音を準太は 聞いた。 何かを言わなければと口を開いたが答える前に上腕を掴まれ、そのまま引きずるように連れて 行かれる。休業日なのかシャッターの閉まった果物屋の屋根の下まで来て、ようやく腕を解放さ れた。 耳を直接叩いていた雨音が遠ざかり、髪から伝い落ちた雫が足元にパタパタと濃い染みを作っ ていく。 「何してんだよ?」 差していた傘を閉じずにそのまま地面へと投げ捨てるように置いた島崎が、もう一度同じ言葉 を口にした。 「…こんなに、降ると思わなくて」 真直ぐに向けられた鋭い視線に、何処となく言い訳めいた口調になってしまい声が頼りなく揺 れる。おまえな、と島崎がやはり苛々と呟いたのが耳に届いた。 「肩冷やすなよ」 低い声でそう告げた島崎が自分の荷物と一緒に準太のバッグを軒下へと放ると、そこからタオ ルを取り出しながら、さっさと脱げ、と準太の重く濡れたブレザーを顎で指し示した。 雨足は一向に弱まる気配を見せず二人の頭上に張り出した屋根を高らかに打ち続け、どこか薄 い膜の中に閉じ込められているような不可思議な感覚に囚われる。 よりによって、彼と二人だなんて。 こうして島崎と二人で雨の音に包まれているということが、準太をひどく落ち着かない気分に させていた。 ──俺にしとけって言ってんの。 目を逸らしたまま記憶の隅へと押し遣っていた言葉が胸に返る。 どこまでが本気なのか、あの時も今も、準太にはわからなかった。 自分を選べと彼は言ったのだ。彼の言葉を借りるならば、それはつまり常識やモラルの壁を越 えた上でということであり、島崎にはその準備があるということでもあって。 何を馬鹿なことを、と思った。 勝手だ、とも思う。 今までそれらしい言葉も態度も、一度だって与えなどしなかったくせに。 島崎の存在は、危険だ。 幾重にも張り巡らせた殻など簡単に無意味なものにされてしまう。いつの間にか入り込み、心 を掻き回して去っていく。 そこに残される痛みと焦燥と。 逆らい難い、熱と。 選べと告げた彼が与えようとしているものが何であるのか準太にはわからなかったし、知りた くもなかった。 何より、知ってはいけないと脳の一番奥深いところが低く低く告げている。 だが一刻も早く離れてしまいたいと気は急くのにボタンを外す手は思うように動いてはくれず、 冷えた指先が何度もその上を滑った。 注がれている視線から必死に意識を逸らしながら最後のボタンに指をかけた時、ふいに胸元に 伸ばされてきた手にビクリと動きを止めて息を飲んだ。 「遅えんだよ」 呟いた島崎の長い指が準太の湿ったネクタイを器用に解いてするりと抜き取るのを、硬直した まま見送る。 「そっちも?」 感情の読めない声で問われて、慌てて止めていた指を動かして残っていたボタンを外した。心 臓の音が煩く鳴り響き、頭の芯が熱を帯びてくらりと揺れる。 ようやく袖から腕を抜くのを見計らっていたように水を含んだブレザーを横から奪われ、重み の消えた躯に冷やりとした空気を感じたと思ったらすぐに、ふわりと暖かい何かが肩に掛けられ た。 少し遅れて、準太はそれが島崎のブレザーであることに気がついた。 「あの、これ…」 「いいから着てろよ」 静かに、だが抗えない口調で言われて、突き返すことができずに仕方なく袖を通す。 着込んだそれが準太のものより少しだけ大きいことに複雑な思いを覚えながら、視線を合わせ るのは何となく躊躇われて島崎の白いシャツの胸元へと視線を向けた。 いつの間に脱いでいたのだろうか。 準太の躯を包んだそのブレザーにはまだ島崎の体温が残っていて、その緩やかな熱がじわりと 冷えた躯へ染み込んでくる。何やら余計にそわそわと落ち着かない気分に陥り、意味もなく何度 も瞬きを繰り返した。 「寒くないんですか?」 薄暗い軒下で白々と映えるシャツを見遣りながら逸る鼓動を誤魔化すように訊ねると、ふいに 濡れた髪の上にかけられたタオルに視界が遮られた。 「濡れてるおまえを見てる方がよっぽど躯に悪い」 「…どういう意味ですかそれ」 「そのまんまだよ」 笑みを含ませた声がタオル越しに聞こえたと思ったら、島崎の手が動いてガシガシと髪を拭き 始める。 「わ、」 頭部に与えられる少し荒い刺激に狼狽えて手を伸ばそうとしたら、 「いいから黙って拭かれろ」 「……」 その声にいつもと異なる優しい響きを感じ取って、宙を掻いた手をおずおずと引っ込めた。 こんな島崎は、知らない。 聴覚を乱す音と共に頭皮に感じる彼の大きな手の感触に、胸の奥を掻き回される。彼の滑らか なグラブさばきを思い出し、いつも自分の後ろを守っているのはこの手なのだとふいに思った。 それとも、本当は知っているのだろうか。 ボールばかりを、それを受け止めてくれる河合のことばかりを追っていた自分に、その答えは 容易には姿を現してくれそうになかった。 こうして温かな手を伸ばしてくれるのはいつも捕手である河合や利央の役目であり、その時島 崎がどうしていたのかが準太には思い出せない。 記憶を辿ると触れるのはどれも、準太の神経に乱暴に入り込む彼の冷ややかな笑みばかりで。 島崎が、嫌いだった。 その理由など山ほど上げられる。 だが、こうして焦りを生む程に速まる鼓動の理由は、一つも言葉にすることができなかった。 今まで自分が見てきた島崎の姿が全てではないのだとしたら、この意識に染み込んだ感情をど んな風に処理したらいいというのだろうか。 河合も利央もいない、二人だけで向き合った島崎に対して。 << back : top : next >> ----------------------------------------------- (20050508) |
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