視界を塞いでいたタオルが取り去られ、雨音と薄暗い軒下の明かりが唐突に戻された。 島崎の節ばった長い指に乱れた髪を整えられていく感触に、準太は瞳を伏せて息を詰める。 やはり、こんな島崎は、知らない。 優しく髪を梳く彼の手に胸の内側まで触られているようで、滲んできた熱を追い払うように震 える睫毛を無理矢理に押し上げて視線を向けた。 何故か振り払うことのできないその手の動きに合わせて揺れる肩を眺める。 薄いシャツの下にある形の良い鋭角的な骨格と、それを覆うしなやかな筋肉の存在を感じ取っ て小さく唇を噛んだ。 自分に多分に残されている未完成な危うさのようなものを、この島崎という男には感じない。 ずるい、と思った。 「──随分と、優しいんですね」 言うつもりなどまるでなかった言葉が無意識に唇から溢れて慌てて口を噤んだが既に遅く、島 崎の目が微かに見張られたのを見てたちまち深い後悔の念に襲われた。 動揺を悟られたくなくて、俯いてしまいそうになるのを何とか抑えて表情を消した顔をわざと 挑むように島崎へと向ける。 ざわつく胸がきりきりと痛みを訴える中、準太を見返す島崎の瞳がゆっくりと瞬き、細まった。 「ウチの大事な大事なエース様だからな」 その瞳も唇に浮かべられた薄い笑みも、今まで準太が知っていたいつもの島崎のそれで。 一瞬、視界が色を失った。 揶揄するような笑みと共に投げられたその声は耳から滑り込んで準太の胸の奥へと落ち、鈍っ た刃先で抉られたような疼きを与えて消えていった。 躯の内側から乾いて剥がれ落ちてくる何かを払うように、瞬きを繰り返す。 どうかしている、と思う。 こんなにも、傷ついた気分になるなんて。 いったい何を期待していたというのだろうか。 どんな言葉を。どんな瞳を、自分は。 「不満そうな顔だな」 可笑しそうに喉を鳴らした島崎の声が、雨を弾いて躯内へと染み込んでいく。細く息を吸い込 むと、引き攣れるような痛みに胸が軋んだ。 「…別に。俺が皆から甘やかされてるのは事実ですから」 低く乾いた声で淡々と言い捨てると、 「いいんじゃねーの、甘やかされるくらい。投手なんてそんなもんだろ?」 島崎は気怠そうに告げてゆるりと笑みを深めた。 胸に開いた傷口をこじ開けるような真意の読めないその微笑い方を、準太は嫌なくらい知って いた。 ほんの一時とはいえ、どうして忘れたりしたのだろう。 島崎はこういう男だと、あれほど分かっていたはずなのに。 「甘やかされるのは別にいいとして、ただ、」 ふいに続けようとした言葉を切った島崎の瞳から、笑みが消えた。 「飼い慣らされた投手の後ろを守るのなんざ、俺は御免だね」 雨音が遠ざかる。 静かな、声だった。 だがそこには確かに、何の膜にも覆われていない剥き出しの感情が滲んでいて。 「……」 冷水を浴びせられたような衝撃の後に、今度は腹の底がカッと焼けるような怒りが込み上げて きて見据えたままの視線が振れた。 奥歯を噛み締め、手を強く握りしめる。 「俺は飼い慣らされたりなんかしません」 怒りに、低く押し出した声が微かに震えた。 気がつけばいつの間にか島崎の瞳にはいつもの笑みが戻されていて、楽しむように準太を見下 ろしている。 鼓動を乱す怒りの渦の中に何か別のものが混じっていることを感じてどうしようもない苦しさ に襲われた。 悔しさによく似たそれは、ギリギリと鋭い痛みを発しながらも触れようとするとすぐに心の裏 側へと逃げていってしまう。 熱くて、苦しくて。 この感情は、いったい何だと言うのだろうか。 突然制御できなくなった自分の中のその熱い揺らぎに、準太は足元が崩れていくような底の見 えない不安に包まれた。 薄笑いを浮かべて見つめてくる島崎を睨みながら、泣きたいような気分になって拳を強く握り 直す。 「誰にも?」 「ええ、誰にも」 揺れそうになる瞳に力を込めて低く返すと、一呼吸分の間を置いて、島崎がスッと目を細めた。 「俺にも?」 「…当然です」 「それはよかった」 可笑しそうにくつくつと笑う島崎から視線を逸らしながら、返事を遅らせたものが何であるの か考えそうになるのを無理矢理に意識の外へと閉め出した。 こんな、想いなんて。 「その傘やるよ。早く帰って風呂入って温まりな。おまえが大事なエースだってのは本当なんだ から」 まだ笑みの残る声がかけられても、準太は顔を上げることができなかった。 それを咎める風もなく、島崎がじゃあな、と言って背を向けたのを気配で感じた。 「──なあ、準太、」 ふいに名を呼ばれて漸く視線を上げると、踏み出したばかりの足を止めて振り返った彼の瞳に ぶつかった。 そこに浮かんでいたのはいつもの揶揄を含んだものではなく、見たことのない優しい色で。 「追いかけっこは得意?」 静かに投げられたその声が、しん、と胸の奥に落ちて滲み、小さく震えた。 柔らかく微笑んだ島崎のその顔は、返事など端から望んでいないように思えた。 案の定、準太が口を開くのよりも先に背を向けて肩越しにひらりと手を振ると、彼の足が雨の 中へと伸びる。 咄嗟に、そのシャツの袖を掴んだ。 「慎吾さんは?」 予想外の準太の行動に戸惑ったのか、振り返った島崎の眉が怪訝そうに上がった。 縋るように掴んだ手は離さずに、その瞳を見つめ返す。 強く握り締めたせいで薄いシャツの下から滲んできた島崎の体温が、準太の指に触れた。 「慎吾さんは…得意なの?」 込み上げる熱い波に塞がりそうな喉から押し出した声が、微かに掠れた。 絡んだ視線に囚われたように、ただひたすら見つめる。 やがて黙ったまま準太を見返していた島崎の瞳が、ゆっくりと瞬いた。 「知ってんだろ?」 ふ、と息を漏らすように微笑った島崎の指が、準太の頬をそっと撫でてすぐに離れた。 そのまま、背を向けて雨の中へと走り出す。 空から降り注ぐ大粒の雫が木々やアスファルトを叩いては煙る灰色の景色の中で、彼の白いシャ ツだけが鮮やかに網膜を灼いた。 立ち尽くす準太を残して、その背中は雨に霞んですぐに見えなくなった。 足元に転がる傘に雫が跳ねる音が、静かに耳へと響く。 細く吐き出した息が、乱れた鼓動を映して頼りなく揺れた。 「……」 触れられた頬が、熱い。 指先でそっとなぞると肌に染みていた彼の体温と混ざり合い、その熱さに伏せた準太の睫毛の 先が小さく震えた。 遠くの空はまだ、灰色にくすんだままで。 fin. ---------------------------------------------- 恋に、気づいた。 (20050512) |
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