あとちょっと。
行き交う人の流れに目をやりながら、和谷が口を尖らせた。
「遅ェな、進藤」
「まだ2分しか過ぎてないよ。もうすぐ来るだろ」
和谷は横目でちらりと隣に並んで立っている伊角を見た。
いくら木陰とはいえ駅前の広場に申し訳程度に植えられている木の下である。
照りつける日ざしから完全に身を隠すこともままならないし、いずれにせよ屋外である限り纏
わりついてくる熱気から逃れることはできない。
暑い。
「なんか涼しそうじゃん、伊角さん」
額に滲んだ汗を拭きながら、体温を感じさせない白い顔を見上げると、
「涼しいわけないだろ」
あきれたようにそう言った伊角が、シャツの襟元をパタパタと揺らして風を入れる。
一瞬心臓が跳ね上がり、あわてて視線をそらした。
「…今日はどこの碁会所に行く?」
「そうだなーオレが知ってるとこはちょっと遠いし…和谷どこかいいとこ知らない?」
うーん、と考えるふりをしながら和谷はさりげなく伊角との間の距離をつめた。
近寄ったら余計に暑いということなど、和谷の頭にはもちろん、ない。
「ケーキ屋の横まがった道沿いにもう一軒あった気もするんだけど…」
和谷は、小首をかしげて考えこんでいる伊角を見つめる。
──ちっとも気づいてないところが伊角さんだよな。
ちょっと手を動かせばすぐに触れる距離。そこに自分はいるのに。
ふと、和谷の視線が止まった。
自分のそれより高い位置の、伊角の肩。
──ちぇ…
まだ追い付かない。
伸び盛りとはいえもともと小柄な和谷と伊角との身長差は縮まりつつも無くならない。
「ん? どうした?」
視線に気づいた伊角が不思議そうに瞬きをした。
「別に…」
熱を帯びたアスファルトを軽く蹴る。
──どうでもいいことかもしれないけどさ…
告白をした。キスもした。
手に入らないと思っていた幸せが現実になり、甘い想いで目も眩むほどなのに。
でも…
「どうでもいいことだよ」
「何だよそれ。気になるじゃないか」
どうでもいいことが焦りを生む。
ほんの些細なことが不安を呼ぶ。
「暑いなーと思っただけ」
純粋に友人でいた頃には気にならなかったことが、今では時々頭の片隅を微かな痛みを伴って
よぎるのだ。
──関係ねーよ。
「遅ェぞ、進藤!!」
和谷は想いを振り切るように、駅から走って来たヒカルに大きな声で呼び掛けた。
「今日も負けたヤツ、おごりな」
「おう、いいぜ。今度こそラーメンな」
並んで歩く和谷とヒカルの後ろから、伊角があきれた声を出した。
「また無茶な置石設定する気じゃないだろうなー。大将ジャンケンだからな」
歩きながら和谷が頭だけ後ろに向ける。
「ああ、伊角さん、今日の大将はコイツだから」
「勝手に決めんなよ和谷! ジャンケンだろ!?」
「うるせェぞ進藤。遅刻しやがったんだから当然だろ!」
わめき合う二人に、伊角が額に手をあてる。
「あーもう何でもいいからとにかくあんまり碁会所の人達を刺激するようなこと言わないでくれ
よ、ふたりとも」
オレが引率者になるんだからさ、と続けた伊角の言葉に和谷の胸がチクリと痛んだ。
確かに傍目から見ればひとり年齢の離れた伊角は、二人の子供を引き連れた責任者に見えるだ
ろう。
その事実に思いのほか傷ついている自分に和谷は腹がたった。
「オレは進藤ほどガキじゃないぜ」
「和谷! それはこっちのセリフだぞ!」
「ああ、もうふたりともやめろって。とにかく負けるなよ、和谷。もちろん進藤も」
和谷の不機嫌さの理由に気づかぬ伊角が、笑いながら和谷の髪を軽くかき回す。
和谷はますます不機嫌になった。
伊角は先程からそっぽを向いている和谷を困惑げに眺めた。
「…何か怒ってないか? 和谷」
ジュースを買いにコンビニへ走って行くヒカルの背を見つめていた和谷が、ゆっくりと顔を向
ける。
「伊角さんさぁ…」
「ん?」
「どう思ってんの? オレのこと」
「え…」
虚をつかれたように目を瞬かせている伊角を睨む。
「え、はねェだろ。…まさかただの友達とか言うつもりじゃないよな?」
「あ…はいはい、そういう意味ね」
──はいはいって…何かイマイチ軽くねェか!?
和谷の目が据わる。
「…で? どう思ってんの?」
「いや、だからその…」
恨ましげにじっと見つめてくる和谷に根負けした伊角がぼそりと答える。
「………………す、好きだよ」
「何でそんなに小声なんだよ」
「ちゃんと言っただろ! そんな恨めしそうな声出すなよ!」
「想いが足りねェ…足りねーよ、伊角さん!」
「おまえ最近意地が悪いぞ!?」
「───どうかしたの? ふたりとも」
突如かかった声に和谷と伊角が同時に「うわっ」と叫んで振り返る。
ジュースを片手にヒカルがぽかんと立ち尽くしていた。
「ななな何でもないよ、進藤」
「進藤、オマエもっと遠くから声かけろよ!」
「は?」
何だかよくわからなかったがとりあえず咽の乾きを癒すことを優先させることにしたヒカルは、
二人を無視してプルトップを引き上げた。
碁会所に向かって歩きながら、和谷は伊角の横顔を眺めた。
──やっぱり子供扱いしてんじゃないだろうな…
おもしろくなくて蹴り飛ばした石が、ジュースを飲みながら二人の前を歩いているヒカルに当
たり怒鳴られる。
──でも…
先程小さな声で「好き」と言ったときの、伊角の表情を思いだした和谷の口元が弛んだ。
微かに染まっていた伊角の頬。
何でもないような顔でつぶやいたくせに、和谷から視線をそらしていた。
伏せた睫毛の落とした影と薄紅色に染まった頬の、ドキリとするような艶かさ。
──オレってもしかして単純?
急に胸の中が甘い想いに満たされてきた和谷は、そんな自分にあきれてしまった。
──ま、いいか。理屈じゃないしな。
不安ももどかしさも皆一つのことに繋がっている。
そして溢れ出る暖かく激しい想いも。
地下にある碁会所の入り口へと続く階段を降りながら、和谷は自分の前を降りて行く伊角の後
ろ姿を見つめた。
「伊角さん」
足を止めた伊角が不思議そうに振り返った。
伊角が立っている段のすぐ上の段まで和谷が進む。
そうして立つと和谷の方が伊角よりも少し目線が上になった。
──いつかこうなりますように。
見上げて来る瞳を見つめる。
全ての想いが繋がるその人の。
「…和谷?」
まだまだ何もかも足りないけれど。
でも。
「負けないよ、伊角さん」
自分自身に。胸の痛みに。
だって…
和谷はちらりと先頭を行くヒカルの背を確認すると、すばやく身をかがめた。
「!」
塞いだ唇から流れ込む甘い痛み。
この想いだけは本当だから。
顔を離した和谷は、目を白黒させながら慌ててヒカルを見る伊角に、「大丈夫、見られてない
よ」と平然と答えた。
真っ赤になって口をパクパクさせている伊角に片目をつぶってみせる。
「そういうわけだから」
「…なっ、何がそういうわけなんだっ!」
騒がしくなった後ろのふたりをヒカルが訝しげに振り返った。
「どうかしたの?」
「どうもしないよ!!」
わめいた伊角の声が狭い階段に響き渡った。
和谷はそっと微笑んだ。
──負けないぜ。
胸の奥の深いところにある形のない何かに誓う。
あともうちょっと。
背伸びではなくて、本当の伊角に近づくために。
fin.
>> オマケ。
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