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クローバー
目の前に差し出された古びた封筒をちらりと見ると、明人は再び手元の本に視線を落とした。
「で? それがどうかしたのか?」
ページを繰りながら顔も上げずに尋ねると、前髪を軽く引っ張られた。
「冷てーな、明人。──何だかわかってるくせに」
無視をきめこみたいところだったが、明人の冷たい態度になど慣れっこな彼がそう簡単にひき
さがるとも思えない。
仕方がないので読書は一時中断することにした。
まだ明人の前髪をいじっている手を払いのけ、睨みつける。
案の定、目の前に立っている貴志は気を悪くするどころか楽しそうに目を細めた。かがむよう
にして明人の耳もとに唇をよせ、声をおとす。
「そんな色っぽい顔するなよ。キスするぞ」
すばやく手元の本を掴み上げたが、公共物を傷めてはと思い直し、殴るのをあきらめる。と同
時に、とっさにそんなことにまで理性が働く自分に内心ため息がでた。
「ここが図書室でなかったら殴ってやるところだ」
「ここが図書室でなかったらキスしてるよ、俺は」
女の子だったら一発でノックアウトされてしまいそうな艶やかな笑みが返ってきた。しかし、
明人はあいにく女の子ではない。
再び貴志を睨みつけると、無言のまま立ち上がった。
この静かな場所で貴志がこれ以上馬鹿なことを言い出す前に退室した方が賢明だろう。ただで
さえ貴志は人目をひくのだ。
読みかけの本を持ってカウンターへ向かう。当然のごとく貴志も後に続いた。
日曜日とはいえ、綾村学院高等学校の図書室にはぱらぱらと人がいた。中高大一貫教育のこの
学院の高等部は、全寮制のうえ人里離れた山の上にあるため、学校の敷地内で休日をすごす生徒
も少なくないのだ。制服を着用すれば校舎内の一部にも入れるため、明人もしばしば休日に図書
室を利用していた。
「貸し出しお願いします」
座っていた当番の図書委員に本を差し出す。書き物をしていた図書委員が顔をあげて明人たち
をみとめたとたん、みるみる赤くなった。
「あ、こ、ここに名前書いて」
制服のブレザーにはいった線の色からして三年生である彼は、下級生である二人を前になぜか
ひどく緊張していて、微かに震える手で貸し出しカードを手渡してきた。
慣れた手つきで『2−5 藤瀬明人』と書き込みながら、明人は目の前で真っ赤になってあた
ふたとする上級生と、明人のすぐ後ろに立っている貴志のことを交互に思った。またか、と納得
がいきながらもなんとなくおもしろくないような複雑な気持ちで書き終えたカードを提出し、図
書室を後にした。
岡崎貴志はとにかく目立つ男である。貴志がいるところには自然と人が集まったし、街を歩い
ていても女性を中心に何人もの人たちが貴志を振り返った。幼いときからずっと近くにいる明人
には、貴志がいかに人を魅了する人物かとてもよくわかっていた。彼が人を惹き付けるのは、そ
の秀でた容貌のためだけではないということも。
貴志と明人が通うこの綾村学院にも、単なる憧れから恋心まで様々な想いを貴志に抱いている
者が大勢いた。男子校であるにもかかわらず、だ。
だから先程の図書室での一件も、いわば日常茶飯事の領域に入るのだった。それなのにいつま
でたっても慣れない自分に明人はつくづく嫌気がさす。このすっきりしない感情は何なのだろう
か。嫉妬? ──何に?
「読書は自分の部屋でしろよ」
図書室を出たとたん頭上からかかった声の中に僅かに不機嫌な要素が含まれているような気が
して、明人は隣りに並んで歩く貴志の顔をあおぎ見た。自分の小柄さが際立ってしまうためあま
り側に並んでほしくない長身の幼なじみは、いつもの余裕たっぷりの人をくったような笑顔を浮
かべて明人を見ていた。思い過ごしだったのだろうか。
「どこで読もうが僕の勝手だろう」
意味を問いただすのよりも先に憎まれ口をたたいてしまう自分はつくづく可愛げがないな、と
明人は細いフレームの眼鏡をかけ直しながら思った。
「明人は無防備すぎるんだ」
「は?」
「さっきの三年生、どう思った?」
「…どうもこうもいつものおまえのファンだろ? 何なんだ、さっきから。話が飛びっぱなしじ
ゃないか」
貴志が足を止める。相変わらずにやにや笑っていたが、今度は間違いない。他の人にはわから
ないような微妙な加減で不機嫌さが笑顔の陰からのぞいている。
「全部つながってるだろ。…ちょっとは自覚してくれよ、明人」
普段、貴志は人前で子供じみた不機嫌そうな顔は見せない。明人が「人をくったニヤニヤ笑い」
と称する笑顔をうかべて周りの人々を翻弄するのが貴志の十八番だ。いつでも余裕たっぷりでと
っくの昔に大人になってしまったかのような貴志が時々ほんの僅かだけ見せる「素の顔」。
だが、こういう貴志を知っているのは自分だけだと優越感を感じられるほど明人は単純ではな
かった。
何も恐れずに自分を信じられるような子供でも、もうない。
「俺が図書室に入っていったときもさっきの上級生、明人の読書姿をチラチラ盗み見てたぜ。奥
の方に立ってたヤツも本を選んでるふりしてやっぱりおまえのこと見てたし」
一旦言葉を切ると、貴志は長めの髪をだるそうにかきあげた。
やや茶色い髪に差し込まれた節ばった長い指や伏せられた切れ長の瞳。そのひとつひとつが見
る者をひきつける。
貴志の昔からのくせだ。明人は今まで何度も「邪魔なら切っちまえ」と言ってきた。その都度、
明人のそっけなさを楽しむような微笑みが返ってくるだけだったが。
胸がざわつくのだ。一瞬だが、息が苦しいような、痛いような。
そして明人はその痛みの正体を知ることを恐れている。今でも。
「──最近、また売り上げあがってるってさ。おまえの写真」
「…写真? ──ああ」
無意識に貴志の仕種を目で追っていた明人は、突然の話題変換に一瞬戸惑ったが、すぐに理解
し、ひょいと肩をすくめた。
「まったくいつの間に撮られてるんだかな。ヒマなもんだ」
「そんな興味なさそうに言うなよな」
「自分だって興味ないだろう。おまえの写真だってだいぶ売れてるらしいじゃないか」
「そりゃこんなにイイ男を女の子たちが放っておくわけないだろ。だからいいの、俺は。明人の
場合は客層が違う」
綾村学院の生徒の隠し撮り写真が近辺の学校を中心に出回っているのは周知の事実である。ル
ックスの良い生徒が多いので有名な上に、街から離れた山の上にある全寮制の男子校という特殊
な環境が人々の興味を余計に引いているのかもしれない。
「校内でもさ、二年生になってますますクールビューティぶりがあがったって評判なんだぜ。明
人の写真を手にアレコレ想像してるヤツらがいると思うと夜も眠れないんだけど、俺」
「じゃあ眠らなきゃいいだろ。──それより用件を言ったらどうなんだ」
思いっきり嫌そうな顔でつぶやくと、明人は貴志の左手に握られている封筒を軽くあごで示し
た。
そんな明人を見て楽しそうに笑った貴志は、渡り廊下の端にあるベンチに誘った。
「この間のあけ具合が明人らしいよな」
少し離れて腰掛けたのを貴志が目ざとく見つける。
「これ以上くっついて座るのはいやだけど、これ以上離れると俺が傷つくってとこ? 相変わら
ず優しいな、明人」
「…別に、そんなんじゃない。男同士でわざわざくっついて座ることもないだろう」
見すかされたのが悔しくて、つい視線をそらす。評判のポーカーフェイスも貴志が相手だと思
うように発揮しない。
ふいに貴志が身じろぐ気配を感じ、明人は思わず息をつめた。だが予想に反して貴志は二人の
座っている間をつめることはせず、長い足をゆったりと組み直しただけだった。
明人は内心、ほっとした。
「この手紙、昨日ウチから送られてきたんだ。明人んちはウチと違ってマメだからもっと前に送
られてきただろ?」
「…ああ」
二人が通うこの綾村学院は全寮制のため、実家に届いた郵便物を家族が時々こうして寮へ送っ
てきてくれる。貴志の指摘どおり、明人の元へも目の前の封書と同じ差出人のものが一週間ほど
前に届けられていた。よく気のつく義母はいつもこまめに転送してきてくれる。
「すっかり忘れてたよ、この手紙の存在なんて。もう十年もたつんだな」
そう言いながら、貴志はなつかしそうに目を少し細めて明人を見つめた。
深い眼差しにやや戸惑った明人は、逃れるように視線を自分の足下に落とした。きれい好きな
明人らしい清潔な白い上履きのつま先のあたりに視線をさまよわせながら、胸のざわつきの理由
をさぐる。
貴志の瞳にはいったい誰が映っているのだろうか。今ここにこうして並ぶ明人なのか。あるい
は十年前の幼い明人なのか。
──それとも…
胸がチクリと痛んだ。
「読んでみてくれよ。これがまたなかなか健気なんだな」
明人の沈んだ心を知ってか知らずか、明るい口調で貴志は封書の中身を差し出した。
無言で受け取った明人は、少々変色したその手紙をそうっと開いた。
『おおきくなったぼくへ
げんきですか? もうパパよりおおきくなったかな?
ぼくのとなりであっちゃんもおてがみかいてます。
なんてかいてるのかないしょなんだって。
おおきくなったあっちゃんもげんきですか?
おおきくなったあっちゃんもやっぱりかわいいとおもいます。
ぼくとあっちゃんのやくそく、ちゃんとまもってね。
ゆびきりげんまんだからね。
かみさまおねがいです。
どうかずっとずっとあっちゃんといっしょにいられますように。
あおぐみ おかざきたかし』
「……」
「な? あふれているだろう、お前への愛に」
明人は顔を上げずに無言のまま手紙を元の通りに折り畳んだ。
「こんな十年後に届く手紙の存在なんてすっかり忘れちまってたけど、お前と十年前にした『約
束』はずっとおぼえてたぜ。──明人。お前もそうだろ?」
「…何のことだ」
視線をそらしたまま畳んだ手紙を押し付けるように返す。顔を上げなくても貴志がクスリと笑
ったのがわかった。
「──『あっちゃん』からの手紙にも書いてあったんだろ? 約束のこと」
「だから何のことだと言っているんだ」
眉をひそめて顔を上げた明人は、隣に座っている幼なじみの整った顔が思いのほかすぐ近くに
寄せられているのに驚き、危うく声をあげそうになった。
知らぬ間に2人の座っている距離が縮められている。
反射的に後ずさろうとした明人の動きを阻むかのように、貴志の手が明人の左腕を掴んだ。
大して力も込められていないのに、身体が動かなくなる。硬直した明人の耳もとに貴志の唇が
寄せられた。微かに息がかかる。
明人は右手で自分のブレザーの裾をぎゅっと掴んだ。
「もし本当に手紙に何も書かれてなかったとしても、おぼえてたんだろう明人。──そうじゃな
かったらお前に手紙が届いた時点で俺におしえてくれてたはずだ。こんなの届いたぞ、なつかし
いなってな」
「…そんなガキのころの話なんておぼえてるわけないだろう」
耳もとでささやかれる言葉に、努めて平淡な口調で答える。
微かに声がふるえてしまったことに貴志が気付かないでいてくれることを祈った。
胸が苦しくて、悲しさに似た何かが息をつまらせる。
貴志がまたクスリと笑った。
「…かわいいな、明人は」
長い指が明人の柔らかな頬にそえられる。明人の身体がビクリとすくんだ。
「好きだよ、明人。──昔も。今も。ずっと」
貴志の整った顔がゆっくりと近付いてくる。
周囲から音が消え、自分の心臓の音が全身をつつんだ。
頬に添えられえた指の熱さと、早まる鼓動の響きで目眩を感じた明人は、そっと瞳を閉じた──
閉じたまぶたの裏に夕暮れに染まった教室が浮かぶ。
──なあ、岡崎。お前また彼女変えたんだって?
──まあな。
──あいかわらずだなー。それにしても頻繁すぎないか?
──そうでもないよ。
──いや、そうだって。あのさ、もしかして岡崎ってホントは
誰かを本気で好きになったことなんてないんじゃないの?
──そう言うおまえは?
──それ言われると痛いんだけどさ、岡崎よりはマシだよ。
で、どうなんだ? 誰か本気で好きになったことあるのか?
──あるよ。…今いるんだ。好きすぎて手をだせない相手が。
──え、本当に? 誰?
──……薫さん。
「!」
明人は咄嗟に貴志の胸を押し返した。
まだ触れていなかった唇で低い声を押し出す。
「…帰る。おまえの悪ふざけにつきあっていられるほどヒマじゃない」
「明人」
うつむいたまま貴志の手を振り払って立ち上がった明人は、呼び掛けに振り返ることなく走る
ようにしてベンチを後にした。
貴志は追わなかった。
渡り廊下の先に消えていく華奢な背中を見つめながら、ため息をもらす。
まだ明人の感触が残る手を見つめた。
たった今、目の前でゆっくりと閉じられたまぶたの白さを思い出す。
唇が触れあう直前にみせた痛みをこらえるような表情。貴志の胸を押し返した細い腕の微かな
震え──
「拒絶されたのはこっちなのにな……」
明人を、傷つけた。
原因はわからない。
でもそれだけははっきりとわかった。
髪をかきあげながら、貴志はもう一度長いため息をついた。
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