クローバー #2
寮の入り口の柱にもたれて乱れた息を整えながら、遠くに見える校舎を眺めた。
図書室の側の渡り廊下からここまで一気に走ってきてしまった。同じ敷地内といっても山奥に
建てられたこの綾村学院の広さはハンパじゃない。急ぎの用があるわけでもないのに、気がつけ
ば走ってきていた。
まるで貴志から逃げるように。
「簡単に好きだなんて言うなよな…」
最近頻繁になってきた貴志の悪ふざけだ。明人のことを好きだという。
まるで愛おしむかのような眼差しに騙されそうになる。優しい指先に心が揺れてしまいそうに
なる。単なる冗談で、もしその中に僅かでも本気が含まれているとしたら──それは明人に向け
られているものではないというのに。
身体が地面に沈み込んでいくようだ。
重い身体を押し付けるように柱にもたれたまま、足下に視線を落とす。小さな白い草花が頼り
なげに一輪咲いていた。
いったい自分は何を期待しているのだろうか。あの、誰もが魅了される、そして同じ男である
幼なじみに。
何を求めているのだろうか?
「…らしくないよな」
こんなにも動揺し、こんなにも混乱してるなんて。
自嘲ぎみな笑みを浮かべながら、明人はずれた眼鏡を直した。
「あれ、藤瀬?」
ふいにかかった声に驚いて顔を上げる。
とっさに冷たいほどのポーカーフェイスに覆われた顔が、相手をみとめて少し弛んだ。
「橘」
「何してんの、こんなとこで。待ち合わせ?」
長身の貴志よりもさらに背の高い少年がゆっくり歩いてきた。
中等部からの友人・橘雪宗は、柱から身を起こした明人に柔らかな笑みを向けた。
「いや。ちょっと考え事。もう部屋に帰ろうと思ってたとこ」
「じゃあちょうどいいや。マドレーヌもらったんだ。部屋で一緒に食べようぜ。…図書室行って
たのか?」
制服を指差されてうなずく。
「一人で?」
「…ああ。一人だよ」
頬に添えられた長い指の感触がよみがえり、返事が一拍遅れる。
雪宗はそしらぬ顔でふうんとつぶやくと、綺麗な花の絵が描かれた小さな紙袋を軽くふってみ
せた。
「早く帰って食べよう。夕飯までまだけっこうあるのに腹へってるんだ」
雪宗にそっと背中を押されて歩き出す。
意識が遥か後方の校舎に向きそうになるのを振り切るように、明人は寮の中へ入っていった。
マドレーヌはしっとりとしていて甘過ぎず、美味しかった。
花柄の袋。中のセロファンを結んでいたピンクのリボン。見るからに心のこもった手作りの菓
子だ。
今日のデートの相手からもらったのだろう。最初に遠慮したら、「寮のお友達と食べてねって
言われたんだからいいんだよ」とさらりと言われた。雪宗の表情からいって嘘ではないらしい。
貴志と並ぶほどモテるこの友人は、細やかな性格のわりには恋愛に関しては以外と淡白なとこ
ろがあった。中等部時代から常にガールフレンドがいたのだが、どの相手のときでも思い悩んだ
り取り乱したりといった様子は一度も見せたことがなかった。
外見こそタイプの違う色男だが、そういうところは貴志と雪宗はよく似ている。今日だって貴
志もデートだったのだろう。朝食を食べた後すぐに出かけて行くのを見かけた。早めにきりあげ
てきてヒマつぶしに図書室に明人をさがしに来たに違いない。
見かけるたびに変わる、貴志の隣を歩く女の子。貴志のそういった交友関係を考えるとき、あ
きれるような、眉をひそめてしまうような、漠然とした気持ちにおおわれる。何を考えているの
かさっぱりわからない、というのが一番ぴったりくる言葉かもしれない。
本当に何を考えているのだろうか。
薫を想っていながら、次々に女を変え──
そして明人にキスをしようとする…。
「藤瀬。どうかしたのか?」
はっと顔を上げると、雪宗がコーヒーを飲む手を止めて明人を見ていた。いつもと変わらぬ様
子で柔らかな微笑みを浮かべていたが、瞳が心配げに細められていた。
「どうした? さっきから黙りこくってコーヒーばっかり見てるけど」
「…悪い、ちょっとぼーっとしてて。昨日本読んでて寝るの遅かったから」
「ふーん、ならいいけど」
そう言ってカップを口に運ぶ雪宗をぼんやりと眺める。雪宗の動きはいつも綺麗だ。貴志とは
また種類の異なる色っぽさがある。貴志の方が押しの強い男性的な色気だとすると、雪宗の方は
そこはかとなく漂う中性的な色気だ。昔から女の子には不自由しない文句無しのいい男なのだが、
雪宗が女性と親密な関係でいるということを想像するのには何となく違和感があった。言うなら
ば、性欲から切り離されている、完璧な紳士、といったところか。
それなのに、そんなストイックな顔をしながら貴志の言ういやらしい軽口にも平気でついてい
っているのだから、この橘雪宗という友人もイマイチ謎である。
「今日、岡崎どこ行ってたか知ってる?」
突然貴志の名があがってドキリとした。内心の動揺を隠すように、軽く肩をすくめてみせた。
「知らないよ。どうせデートだろ」
興味がなさそうに答えると、なぜか雪宗がおもしろそうに笑った。
「…何だよ」
「いや、あんまり藤瀬の言い方がそっけないからつい」
「貴志がふらふらしてるのはいつものことじゃないか」
「ま、そうだけどさ。……試しに言ってみれば? ふらふらするなって」
明人の目が軽く見開かれて静止した。
雪宗の口元にはからかうような笑みが浮かんだままだったが、目は笑っていなかった。
「…何で僕がそんなことを?」
慎重に言葉を選んだ。するとまるで準備されていたかのようにすぐに答えが返ってきた。
「藤瀬以外のヤツが言っても意味がないから」
「……」
雪宗と目を合わせたまま、やけにはっきりと言い切られた言葉の意味を探る。
あの日、夕暮れ時の教室で、貴志の想い人の名をきいたのは他ならぬこの雪宗である。まさか
廊下で偶然明人が立ち聞きしてしまったなんて思いもよらないだろうが。
雪宗は知っているのだ。貴志が薫を──明人の姉である薫のことを愛しているということを。
明人はすっかり混乱してしまった。投げかけられた言葉の意味が本当にわからないのだ。
ふいに雪宗が笑った。
瞳からも真剣な表情が消え、慈しむような、柔らかな視線を明人に向けて、クスクスと楽しそ
うに笑い出した。
「ごめん、ごめん。別に困らせようと思って言ったわけじゃないんだ。何となくね、そろそろ岡
崎も落ち着けばいいのに、なんて思ったから」
何でもないことだったように言われ、少しほっとする。
自分でも神経質だと思うくらい生真面目な性格の明人が不必要に追い詰められないように配慮
して言ってくれているのだとはすぐにわかった。雪宗はいつも優しい。
明人もわざと軽口をたたいた。
「たしかに橘が言っても説得力ないもんな」
「あ、痛いとこ突くね。でもね、その見識は間違ってるんだな、明人君。俺と岡崎は全然違う」
「どう違うんだ? 二人とも同じように女の子の噂が絶えないじゃないか」
「…いいかい、藤瀬。ここが重要だからな」
雪宗は一語一語切るようにゆっくりと言った。
「俺はそのどこかに居場所があると信じて歩いているんだ。でも岡崎は、そこに居場所がないこ
とを知っていて歩いている」
眉間にしわを寄せて黙ってしまった明人に、雪宗は軽く首を傾けて微笑みかけた。
「OK?」
「…僕にはどっちも節操無しとしか聞こえなかったけど」
あはは、と笑った雪宗がコーヒーのおかわりをいれるために優雅な動作で立ち上がった。
「藤瀬には負けるな。ま、ヒマな時にでも考え直してみてよ。学年トップの頭は伊達じゃないだ
ろ?」
明人は返事の代わりに肩をすくめてみせた。
雪宗が煎れてくれたコーヒーを飲みながら新入生のことなどを話題にしていたとき、誰かがド
アをノックした。
瞬間、明人のカップを持つ手が強ばった。
「はーい、どうぞー」
部屋の主である雪宗が答えると、ドアが勢いよく開いた。
そのまま部屋に入ってきた人物を見て、明人の身体から力が抜ける。同じ茶色の髪でもタイト
なスーツが似合いそうなあの彼とは違い、目の前に現れたこの少年はスケボーでも乗りまわしそ
うなタイプだ。
「あれ、藤瀬さんだっ。いらっしゃーい」
雪宗のルームメイトの加納千秋が元気よく挨拶をしてくる。まるでぶんぶん振られているしっ
ぽが見えそうな笑顔だ。
「あー、何かうまそうなもん食ってますねー」
大きな身体をしながら子供のように屈託のない千秋に、上級生二人は自然と笑みをもらした。
「まだいっぱいあるからおまえも一緒に食べないか?」
「えっ、マジっすか! ラッキー!」
こんなに喜んでもらえたらマドレーヌもさぞかし本望だろうというような笑顔になった加納少
年は、手を洗ってくるとこれまた幸せそうな顔でマドレーヌをほおばった。
「うめー。これってやっぱ雪宗さんの彼女の手作りですよね?」
「んー、彼女ってわけじゃないけど。手作りなのは当たり」
「あーあ、これだからモテる男はいやっすねー。何なんですか、その、彼女でもないのにお菓子
つくってきてくれるってのは」
「…友達だよ。つきあってるわけじゃないから彼女とは言えないだろ。もういいから黙って食え
よ」
雪宗が少々困った顔でひらひらと手を振った。
「かーっ! なんて贅沢な! ちょっとどう思います、藤瀬さん?…って、ああ藤瀬さんもモテ
るからきいてもしょうがないか」
「僕は別にモテないよ」
「わかってないなー藤瀬さん。もっと自分の魅力を知っておかないと危ないっすよー」
「そうだ、千秋、もっと言ってやってくれ」
「…橘。おまえどっちの味方なんだ」
憮然とつぶやく明人を見て、雪宗がクスリと笑った。
「俺? もちろん藤瀬の味方。…でもちょっとは岡崎にも同情するもんがあるからさ」
「……」
何でそこで貴志が出てくるのかと喉元まで出かかったが、千秋のいる手前、話題をそらす方を
明人は選んだ。
「第一加納の方こそ困ってなさそうじゃないか」
「あ、俺、女の子ウケ悪いっすよ。女の子は大好きですけど、ほら俺、沢渡さん一筋ですから。
そこんとこがはっきり態度に出るらしくって。なんで同じ男なんか好きなわけ?ってなかんじで。
男が好きなんじゃなくて沢渡さんが特別なのになー」
とたんに雪宗がひどく嫌そうな顔になった。
「ほんとおまえって趣味悪いよな」
「えー、雪宗さんがおかしいんですよ。あんなに沢渡さんと一緒にいてよく何ともないっすね」
「…どうにかなってたまるか。しかもよりによってあいつ相手に」
綺麗なラインを描いている眉を思いきりしかめてそう言った雪宗を見て、明人がくすりと笑っ
た。
「橘にそんな顔させるんだから沢渡もたいしたもんだな」
「…俺は豊とあわないの」
「そう言うわりにしょっちゅう一緒にいるくせにー。ずるいっすよ、雪宗さん」
「仕様がないだろ、俺も豊もフロア長なんだから会わなきゃならないことが多いの。…なんだよ
千秋、その不満そうな顔は。大体な、俺は今マコちゃんに片思い中なの。だから特定の彼女もつ
くってないし。好きだって言ってくれる女の子にもちゃんと片思い中だからつきあえないって言
ってるよ」
ああそういうことなんだ、と千秋と明人は顔を見合わせた。目の前の狐色のマドレーヌと、ほ
どかれたピンクのリボンに目をやる。
「雪宗さんってそういうとこ、意外と真面目ですよね」
「意外と、は余計だ。意外と、は」
千秋があははと声を出して笑った。
雪宗が新入生の久我沢真に一目惚れ宣言をしたらしいという噂は、綾村学院生の間で結構な騒
動を生んでいた。綾村の生徒会役員と寮のフロア長たちは、全校生徒の絶大なる信頼と人気を得
ている実力派の代表者達である。他の学校ではみられないような熱狂的な人気者ぶりは、綾村創
立以来の伝統となっている。
そのうちの一人である橘雪宗の、しかも同性への「一目惚れ宣言」である。どうしちゃったの
かと驚く者から同性でもいいなら何で自分じゃだめなのかと嘆き悲しむものまで上を下への大騒
ぎが巻き起こったのだ。
冷めたコーヒーを飲みながら、明人は雪宗の整った顔を眺めた。今年、高校からの編入生とし
て入学してきた久我沢真のことを頭に思い描く。目のさめるような美少年というわけではない、
どちらかと言うと一見目立たない感じの小柄な少年だが、ついかまいたくなるような可愛いらし
さがある。かなり鈍感そうだが意外と負けん気も強そうで、くるくるとよく変わる表情はまるで
無邪気な子犬のようだ。
今まで同性にはまったく恋愛感情を持たなかった雪宗の告白。可愛い下級生へのちょっとした
冗談だと思っていたのだが、これはどうやら本気のようだ。
同性への恋。自分の気持ちをあっさりと認めた雪宗の正直さがうらやましいと明人は思った。
自分は…。
「明人?」
柔らかく呼び掛けられ明人は我にかえった。
「…あ、悪い。ちょっと考え事してた」
「藤瀬さん、もしかして何か悩み事でもあるんじゃないですか? 俺でよければいつでも相談に
のりますよ。やっぱフロア長って大変ですよね。藤瀬さん、繊細そうだし…」
心配そうに身をのりだしてきた千秋に、笑って「ありがとう」と言うと、雪宗が不満そうに口
をとがらせた。
「何だよ、千秋。俺にそんな優しいこと言ったことないだろ、おまえ。俺だって心身共にお疲れ
になってるフロア長だぞー。俺のこともいたわれよな」
「えー、だって同じフロア長って言っても全然心配なさそうじゃないですか、雪宗さんと貴志さ
んは。沢渡さんは死んでも悩みなんか打ち明けてくれなそうですしー」
「打ち明けるも何も豊は悩んでなんかないっての。あいつの神経は荒縄だ」
またもや不機嫌な顔になった雪宗が残っていたコーヒーを飲みほした。
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