クローバー  #3





  机の引き出しの奥から取り出した一通の手紙をゆっくりと開いた。
  雪宗の部屋から帰ってくるとちょうどルームメイトが外出中で、明人は少しほっとした。
  何となくざわつく気持ちを落ち着けるには一人きりの時間が必要だった。
  机の上に開いた手紙を指でそっとなぞる。
  色あせた封筒の裏に書かれた差出人は、まぎれもなく藤瀬明人本人である。ただし、たどたど
 しい平仮名が今の明人ではないことを物語っている。
  そして住所は貴志のところへ届いた手紙と同じところからだった。スタンプで押されたその住
 所は、幼い日に明人と貴志の二人が通った幼稚園だ。

   『10ねんごのぼくへ
    こんにちわ。あきひとです。
    げんきですか。いまなにしてるの?
    パパ、ママ、おねーちゃんはげんきですか。
    たっくんはどうしてるの?
    たっくんとのやくそく、ちゃんとまもってくれましたか?
    たっくんとずっとずっとおじーちゃんになっても
    いっしょにいてね。
    おおきくなったぼくも、おおきくなったたっくんと
    なかよしでいられますように。
                 あおぐみ  ふじせあきひと 』

  誰もいない部屋にため息が流れた。
 「これじゃ僕の方こそよっぽど…」
  途中で口をつぐむ。「愛にあふれている」とはどうしても続けられなかった。
  幼稚園の卒園時に書いた、いわゆる「タイムカプセル」だ。幼稚園側の都合で多少は前後する
 が、約十年後に届けられることになっていた。
 「こんなの反則だ…」
  こんな手紙の存在などすっかり忘れていた。混乱している自分の気持ちに突如投げ込まれた、
 子供ならではのあまりに素直な感情。そして『約束』。
  ふいに貴志に掴まれた感触がよみがえり、腕をそっと撫でる。


   ──誰か本気で好きになったことあるのか?
   ──あるよ。

   ──薫さん…


  胸の奥の方で重たい何かが鈍い悲鳴を上げていた。眼鏡をはずして机に置いたときのカタリと
 いう音がやけに大きく響いて聞こえた。
  眉根をよせてかたく目を閉じると、背もたれに深くもたれかかる。
  キスを拒んだとき、貴志の顔が見れなかった。
  彼を傷つけただろうか。それとも貴志にとってはとるに足らない出来事だったのだろうか。
  物心がついたころにはすでに一緒にいた。隣にいるのが当たり前になっていた。それなのにこ
 んなにも混乱している。わからないのだ。貴志の心が。
  そして、自分の心が。
  明人はゆっくり背を起こすと机の端に飾ってある写真立てをそっと手にとった。外国の古い街
 並みが写された、やや色あせた写真をじっと見つめる。
  亡くなった母親が気に入っていた写真だった。新婚旅行先で撮ったものらしい。人物は映って
 いなく、ただあるのは淡い赤やオレンジの屋根をした石造りの家々の並びと、その間に走る石畳
 の通りだけという写真だ。一見して外国だとわかる風景なのに、どこか懐かしさを感じてしまう。
  写真立てを裏返し、金具をずらして裏蓋をはずすと、写真の裏から二つ折りにした小さな白い
 紙を取り出した。
  手の中でそっとその紙を開くと、間にはきれいに平らに押された緑色の植物がはさまっていた。
  壊れ物を扱うような手つきでそれを摘み上げる。
  細い茎の先に広がる小さな四枚の葉。
  四枚の緑の翼をもった、小さな小さなクローバー。
  しばらく見つめた後、明人はまるで写真の石畳の下へ隠そうとしているかのように、クローバ
 ーを元通り写真立ての中へ戻した。
 「約束なんてしなきゃよかったな…」
  口の中でつぶやいた明人は、再び目を閉じるとまた椅子に深く沈みこんだ。

  貴志と一度だけ、キスをした。
  薫の結婚式があった日の夜、貴志の部屋で眠りこんでしまった明人に、貴志はそっと触れるだ
 けの、掠めるようなキスをした。
  気づかなかったふりを通した明人は、真夜中に自分の部屋に戻ったとたん、ベッドにもぐりこ
 んで泣いた。茜色に染まった教室からもれてきたあの会話が頭の中をぐるぐる回っていた。
  実の母親が死んだときでさえ泣けなかったというのに、涙があとから流れ出てきた。歳が離れ
 ていたこともあり、ときには母親のように、常に深い愛情で明人を慈しんできてくれた姉の薫。
 明人も薫を心から愛していた。その薫はおそらく貴志の気持ちも知らぬまま、父親の決めた相手
 と結婚してしまった。
  貴志もいつも側にいてくれた。口は悪いが結局はいつも優しかった。そして明人は貴志の自分
 を見る目が時々ひどく柔らかい、何かとても大事なものを見るようなあたたかさを含んでいるこ
 とに気付いていた。つい、勘違いしてしまいそうになるほど。
  その正体が判明したのだ。キスという行為によって。
  貴志の瞳を柔らげていたのは、自分ではない。
  彼の瞳に映っていたのは、この「顔」だ。
  明人は、止まらない涙の理由を考えるのを放棄した。それでも疲れて眠りに落ちるまで泣き続
 けた。
  息がつまるような、静かな泣き方だった。

  貴志にキスされたあの夜以来、明人は姉とそっくりな自分の顔が大嫌いになった。
  涙の理由は今でも意識の外側に押し出したままだ。
  明人は長いため息をつくと、折り畳んだ手紙を引き出しの奥深くへしまいこんだ。





  スニーカーの底が砂利を踏む音が夜の闇に溶けて消えていく。
  もう春とはいえ夜風はひやりとした冷気をはらんでいて、明人は歩きながら羽織っている上着
 のファスナーを上まで引っ張り上げた。
  山の奥だけあってしんと静まり返った闇は深く、透明な空気が肺を満たす。ポケットに手をい
 れたままぼんやりと空を見上げると、少し欠けた月と無数の星々が澄んだ光を放っていた。
  不便さを感じるほどの山奥にあるこの学校と寮も、まる一年過ごした今ではかなりたくさんの
 満足を与えてくれる存在になった。こうして降り注ぐような星の光をあびてたたずんでいると、
 胸の奥の方で渇いて固まってしまっていた何かがゆっくりと水分を取り戻し、溶けて消えていく
 のが感じられた。
  明人は大きく息を吸い込み、静かに吐き出した。
  貴志は今、何をしているのだろうか。
  明かりの灯った寮の建物を一度だけ振り返ると、明人はまた鋪装されていない道を奥へと歩き
 だした。
  所々に置かれている街灯をたよりに、夜道を進んで行く。やがて明人は迷いのない足どりで、
 道の途絶えた木々の間をすり抜けて行った。
  何かにつけ理性的な明人をこんなにも混乱させ、追い詰める唯一の存在。あの夜の涙の理由。
 そして答えを出すことを意識的に拒んでいる自分。
  貴志に好きだと言われてキスを受けそうになりひどく傷ついた瞬間、全ての答えが明人の頭に
 広がっていこうとした。それをむりやり元の場所へ押し戻したのは他でもない、明人自身である。
  これ以上は無理だ。
  いくらねじ伏せても「答え」が顔を出してしまうのは時間の問題だ。
  貴志への特別な想い。友情と言い切るにはあまりにも痛いこの感情。
  認めるわけにはいかないのだ。貴志が受け入れてくれるのがわかっているから。
 「──代わりなんて一度で十分だ」
  明人は夜道を行く歩を速めた。



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次で終わりです〜
あともうちょっとです。

(2002.03.08)