静かなる鐘の音に
細く開いた窓から夜気が流れこむ誰もいない部屋の中で、軽快なメロディが鳴り響いた。
積み上げた布団にもたれて座っていた和谷は、ペットボトルに伸ばそうとしていた手を止めて
畳の上に放ってあった携帯を拾い上げた。
ディスプレイに浮かんだ文字を見て飛び起きる。
<公衆電話>
もう一方の手に握られていた棋譜の束がパサリと音をたてて畳に広がった。
今どき公衆電話からかけてくる人物など、彼くらいしかいない。
それに──
「もしもしっ!?」
勢い込んで出た和谷の耳に流れ込む、柔らかな声。
「そんなに大きな声で言わなくたって聴こえてるよ、和谷」
くすくすと回線の向こうから笑みが届く。
和谷はその声に少なからず安堵した。
そろそろのはずだ。
あの深い痛みを伴う一年を経て、出される答え。
もし今日の結果が駄目だったとしても、この声なら大丈夫だ。
視線すら合わそうとしなかったあの日々とは違う。
まだ、大丈夫だ。
それでも携帯電話を掴む和谷の手は知らず強ばっていた。
この小さな穴を通して聴こえてくる声だけを頼りにするには、胸に残る痛みは重すぎた。
「今、話しても平気か?」
「うん、全然大丈夫。伊角さん、今どこにいんの?」
「電話ボックス」
そんなことはわかってるよと口を尖らせると、見ていたかのようにくすりと笑う息が漏れ聴こ
えてきた。
まだ、大丈夫だ。
向こうに聴こえないように注意しながら、和谷はゴクリと唾を飲み込む。
息をひそめて次の言葉を待った。
「和谷、」
穏やかな、だが先程までの笑みが消え去った声。
携帯電話を掴む手に一層力が入った。鼓動が早い。
「──受かったよ」
和谷の瞳が見開かれた。
「今日決まったんだ。──受かったよ、プロ試験」
「……」
「和谷?」
「……」
「おい? 聞いてるか?」
「……い、すみさんっ! どこ!? ね、今どこにいんの!?」
「え? どこって…」
「すぐ行くからっ! タクシー飛ばしてでもなんでもすぐ行くから! どこなんだよ!?」
夜中だというのに大声で喚いた。
予測していたことだったのに。用意していたオメデトウの言葉さえ出てこなかった。
頭の中で何かが弾け飛んでしまったようだった。
走り回りたいような──泣きだしてしまいたいような。
いっぱいになってしまった胸で、唯一言葉にできる想い。
──会いたい。
ただひたすら会いたかった。
「弁当屋の前の電話ボックス」
「だからっ、どこの弁…」
言いかけて和谷は口を噤んだ。
弾かれたように立ち上がると、そのまま鍵もかけずに部屋を飛び出す。
アパートの階段を音高く駆け降り、駅に向かう道を走った。
曲り角を3つほど曲がった先のガードレールに腰掛けていた影が小さく手を上げて立ち上がる。
言葉が洪水のように溢れてきたが、息が切れて荒い呼気しか出てこなかった。
膝に手をついて呼吸を整える和谷の頭を優しい手がくしゃりと撫でる。
「あいかわらず勘がいいな」
「なん、でっ、こんな走って3分のとこ、まで来てんのに、電話なわけ!?」
「もし誰か…院生のやつとか部屋に来てたら悪いと思って」
顔を上げると少し困ったような顔が見下ろしていた。
「会って直接報告したかったからここまで来たんだけど」
──ああ、伊角さんだなぁ。
ため息に近い呼気が流れた。
プロになれるのは毎年3人だけだ。
他の多くの、同じ道を目指してきた者たちが苦い想いを味わう。
その者たちの前で「合格」の二文字を口にすることの残酷さ。
遠回りをした伊角だからこそ、その痛みを身を持って知っている。
「こんな時にまで気を遣うなよ、伊角さん」
手を伸ばしてその滑らかな頬に触れた。
本当は誰にも遠慮なんていらないのだ。
誰よりも痛みを知っているこの人には、誰よりも喜んでいい権利がある。
和谷は胸に沸き上がる様々な想いごと、愛しい人を抱きしめた。
背中に回した腕に力を込め、静かに告げる。
「おめでとう、伊角さん」
腕の中の躯の温かさに、泣きたくなった。
「うん…ありがとう、和谷」
腕を緩めて少しだけ躯を離し、静かに微笑み合う。
和谷を映した伊角の漆黒の瞳も微かに揺れていた。
街路樹の葉を鳴らした風が髪を流し、白い額がちらりとのぞく。
「和谷…ごめんな」
「何が?」
「俺──去年、おまえのことこんなふうに祝ってやれなかった」
「伊角さん……」
あの時の、心がすれ違ってしまった時の痛み。
「バカだなぁ、伊角さん。いいんだよもうそんなことは」
胸の奥深くに刻まれた傷は、おそらくこの先も完全に消えることはないだろう。
引き攣れたような空の時間。消えてしまった約束。繰り返される、祈りと渇望。
互いの胸に残った、乾いた傷跡。
「伊角さん。全部──俺、全部わかってるからさ」
それでも月日と共に痛みは薄れ──別の何かで埋めることができる。
その傷の痛みさえ笑い飛ばせるようになる、別のもので。
「ありがとう、和谷」
静かな呟きに込められた、たくさんの想い。
それを受けとめるようにそっと唇を合わせた。
「なぁ、伊角さん……泊まっていかねぇの?」
「駄目」
即座に返ってきた答えに和谷が頬を膨らませた。
「そんなに即答しなくったっていいだろー」
「だって俺、明日も試験だよ」
「あ、そっか」
合格が決まったとはいえまだプロ試験は続いているのだ。
嬉しさのあまりすっかり忘れてしまっていた。
じゃあ仕様がねーや、とがっかりしながらもあきらめる。
「残りも全勝するんでしょ?」
「もちろん」
「お、じゃあもし負けたら何か奢ってもらおうっと」
「社会人がタカるなよ」
笑い声が夜気に溶ける。
胸の奥から重い石がどけられたような今、こんなにも笑うことが気持ちいい。
「そうだ伊角さん。合格祝い何がいい?」
「え、いらないよ何も。もう十分祝ってもらったし」
「いいじゃん、俺があげたいんだから。あ、そうだ携帯! 携帯は?」
「携帯?」
「そ。今どき持ってないワカモノなんて伊角さんくらいだぜ」
別に無くても困ってないよ、と伊角があまり乗り気でなさそうに呟いた。
「わかってないなー。伊角さん、家族と暮らしてるから夜中に声が聞きたくなっても電話かけら
れねーんだもん。携帯あったらいつでも声、聞けるだろ?」
和谷の言葉に、伊角の頬にうっすらと赤みが差す。
「ま、まあ。それもそうだけど…」
「じゃあ決まり! 俺のとおそろいのヤツな!」
上機嫌で手を打った和谷を、伊角が照れたような顔で見遣った。
「仕方がないからそれにしてやるか」
「素直じゃねぇなぁ」
「──もう遅いしそろそろ帰るよ。和谷も明日手合いだろ?」
「うん、真柴さんと」
「負けたら奢り」
「負けねーよ」
くすくすと笑い合う。
他愛のない話でじゃれあいながら駅に向かう道を行く。
懐かしい時間が戻ってきたような、微かな切なさを伴った甘さが胸にじわりと広がった。
同じように見えて、決して同じではない日々。
それを噛み締めるように、ふたりはゆっくりと歩いた。
改札へと続く階段の前で、短いキスを交わす。
「じゃあな」
「うん。気をつけて。……おめでとう、伊角さん」
「ありがとう」
何回目かの祝いの言葉に、伊角がふわりと微笑んだ。
階段を数段降りたところで伊角が振り返る。
真直ぐに和谷を見上げ、鮮やかに笑った。
「よろしく、先輩」
そのまま階段を駆け降りて行く伊角の背中を呆然と見つめていた和谷の頬が染まる。
「……帰ったらもう寝るか」
口笛を吹きながら、月明かりに照らされた道を戻っていった。
fin.
>> オマケ。
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