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薄紅色の唄
ざっと木々を揺らした風を、律は目を閉じてやり過ごした。
うっすらと目を開くと舞い上げられた薄紅色の花びらがまるで降り止まぬ雪片のように音もな
く視界をうめていた。
──?
降り注ぐ花びらが途切れたそこに、律はひとつの影を見て息をのんだ。
空の青を隠すようにびっしりと花をつけた大木の上。
桜色の中で、黒い髪がさらさらと揺れている。
まっすぐに枝の先を見据える瞳を、吸い込まれるように律は見つめた。
風が再び視界を薄紅色に染め上げる。
目を閉じたら消えてしまいそうで、桜を映すその瞳を律は瞬きもせずに見つめ続けた。
外して机の上に置いた腕時計をちらりと見て、律はため息をもらした。
試験開始までまだ20分もある。
──さっさと始まらないかな。
教室内は切羽詰まったように参考書を捲る音が充満し、ぴりぴりと張り詰めた空気が流れてい
た。
無理もない。
もうじき始まる私立綾村学院高等学校の編入試験はかなりハイレベルな試験なのだ。
高い学力が要求されるだけでなく、倍率の高さが並ではない。
中高大一貫教育の綾村学院の高等部は中等部からの持ち上がりの生徒で構成され、外部からは
ほんの数名の編入生を採るだけなのである。
この閉鎖的な試験にこれだけ多くの受験生が集まるのには理由があった。
編入生は3年間、学費が免除されるのである。
他の私立学校と比べても遥かに高い授業料のかかる綾村学院は、創立以来多くの良家の子息た
ちが通う、いわゆるお坊っちゃん学校だ。伝統あるこの学校に入学するということは一種のステ
ータスになるだけでなく、卒業後、社会に出た時に役立つ強力な人脈を手に入れる機会を掴むこ
とにもなる。
中等部への入学を逃した者や、経済的にそれほど裕福でない家の者たちにも開かれる、狭き門
というわけである。
──あと15分。こういうときって時間がたつの遅いな。
参考書の一冊すら持ってきていない律は、すっかり暇を持て余していた。
椅子にもたれて周囲を見渡すと、最後の追い込みをしている青ざめた顔が並んでいる。
別に律にとってもこの試験は楽勝というわけではなかった。それほど甘い試験ではないことく
らい重々承知だった。
ただここまできたら今さらというか、なるようになるだけと思っているだけだ。
ふと、律の視線が窓際の席の少年のところで止まった。
──ん?
その少年の机の上にも筆記用具しか置かれていなかった。机に肘をついてぼんやりと窓の外を
眺めている。
──中3…だよな。ここにいるんだから。…外に何かあるのか?
自分ととても同じ年とは思えないような幼さの残る横顔を見つめる。
少年の視線の先を追った律は力が抜けそうになった。
季節はずれの一匹の蝶。
それをただぼんやりと眺めているだけなのだ。よく見ると目が半分閉じかかっている。
──よっぽど自信があるのか、俺と同じような理由なのか、それとも…
単なるアホ、なのか。
答えを出しかねていると、試験官が教室に入って来て律の思考は中断された。
チャイムが鳴り、一斉に筆記用具を置く音とたくさんのため息が教室を満たした。
重い空気を残したまま、昼休みが始まった。
朝方コンビニで買ってきた昼食を机に出した律は、袋を開ける手を止めて立ち上がった。
──外で食おう。
参考書を片手に食事をしている受験生たちに囲まれていてはくつろいだ気分になれない。
幸い、休憩時間は門から出なければ敷地内のどこですごしてもよいとされていた。
コンビニの袋を手に外へ出た律は、校舎脇の花壇の並ぶ一角にあるベンチに腰をおろした。
山奥にある高等部の代わりに、交通の便の良い中等部を試験会場に使っていた。自然にいやと
いうほど恵まれた高等部に比べれば猫の額ほどの敷地だったが、それでも誰の姿も見えない校舎
の外はがらんとしていてだだっ広く感じる。
「外で食うやつはいないのか…」
いい気分転換になるのに、と伸びをした律の耳に微かな音が届いてきて、動きを止める。
──?
気のせいかとも思ったが、耳をすますと微かながら確かに聴こえる。
「…鼻歌?」
確かめたい衝動に駆られて腰を上げる。
少し離れた植え込みの向こうにある噴水の側に、その答えを見つけた。
──アイツだ。
あの窓際の席の少年だ。
天気がいいとはいえこの寒い中、水際に一番近いベンチに座って鼻歌まじりにパンを食べてい
る。
水音にかき消されそうな鼻歌が、冬の冷たい空気の中でそれでも軽やかに踊っていた。
変声期前の少年のような、高い声だ。
黒い瞳が楽しそうに水の流れを見つめている。
それだけなのに。
なぜか声をかけるのをためらっている自分に気付いて、律は眉をひそめた。
──変だな…何だっていうんだ、いったい。
不可解な気持ちを持て余したまま踵を返す。
背中に鼻歌をききながら元の場所へ引き返した。
──それにしても…
「…ひでぇ音痴だな」
昼食の包みを開けながら、律はぷっと小さく笑った。
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