薄紅色の唄 #2





  薄紅色のヴェールの向う側から現れた少年は、自分の乗っている枝の先を一心に見つめていた。
 その幼い横顔に、あの日の少年が重なる。
  ──間違い無い。アイツだ。
  今ここにいて同じ制服を着ているということは…。
  律はほっとした自分に戸惑った。
  今日から同じ学校。ただそれだけなのに。
  たった一日、同じ試験会場にいただけだ。会話をかわすどころか、向こうは自分の顔すら知ら
 ないに違い無い。
  変なヤツ…
  ただそう思っただけだ。それなのにあの日から律の耳から離れない、あの歌声。
  ──何だっていうんだいったい。
  ふわふわとした白い子猫が頭の中で小さく鳴いた。



  ++++++++++++++++



  試験の帰り、香苗との待ち合わせの為にコンビニで雑誌を読みながら時間をつぶしていた律は、
 通りの反対側に立つ彼に気がついた。
  ──何を見てるんだ?
  通り沿いの古い倉庫のような建物の前で立ち尽くしている。
  律の位置から彼の視線の先に何があるのかは見えなかったが、静かに苦悶するような、切なげ
 な表情を浮かべて何かを見つめていた。
  ──あんな顔もするんだな…
  試験会場でののんきな顔が頭をよぎる。
  何となくそわそわしてきて律はちらりと腕時計を見た。そろそろ香苗が来るころだ。
  ──別に知り合いってわけじゃないんだからほっとこう。
  再び雑誌に視線を戻したが、文字の列を目で追いながらも意識はガラスの向こう側に傾きそう
 になる。
  ページを繰ろうとした手が止まった。
  さっきまですんなり入ってきていた文字が、頭に入ってこない。
  小さくため息をつくと、律は雑誌をパタリと閉じた。
  元の場所へ戻そうと顔を上げ、外を見てはっとする。
  いない。
  急いでコンビニから出た律は、通りを足早に歩き去って行く姿を見つけた。
  その背中が小さくなっていくのをしばらく眺めた後、通りを横切って古い倉庫の前に立った。
 「これか…」
  立ち尽くした彼が見ていたものを眺める。
  古びた倉庫と壁の間に置かれたまだ新しいダンボールの箱。
  冬の冷たい空気を真直ぐに突き抜けてくる細くて高い鳴き声。
 「なるほどね…」
  彼がこの箱に近寄らなかった理由。
  切なげな表情が頭をよぎった。
 「……困ったな」
  しばらく箱の中を見下ろしていた律はあきらめたようにため息をついた。
 「…おい、来るか?」
  小さな、だがはっきりとした鳴き声が返る。
  律は屈みこんで手を伸ばすと、中から白くてふわふわしたものをそっと抱き上げた。
  腕の中にすっぽりとおさまったそれは、律を見上げて小さな鳴き声を上げた。



  ++++++++++++++++



 「あ」
  律の口から思わず声が漏れた。
  目の前の事態に我にかえり、少年の乗っている桜の木に駆け寄る。
  太い枝の間に引っ掛かっている姿を見つけ、安堵のため息がもれた。
  細い腕が目一杯伸ばされ、その手が枝の先に引っ掛かっていた白い紙を掴み取ったと思った瞬
 間、何と彼は足を踏み外して滑り落ちたのだ。
  幸い、乗っていた所から数本下の枝に引っ掛かって止まったおかげで地面への落下は免れてい
 た。
  ──……普通落ちるか?
  見上げると、二股に分かれた枝の間で荒い息を吐きながら呆然としている姿があった。
  すぐ下の方に立っている律にはまだ気がついていない。
  律は、彼が無事だったことに心底ほっとしている自分に困惑した。
  相手が誰であれ怪我から免れたのを見てほっとするのは当たり前なのだが、何やらいつもと異
 なる想いが胸に広がっていくのを感じていた。
  理由のわからぬ困惑がいらだちへと変わる。
  そしてその困惑に似た気持ちが今生まれたのではないということを律は知っていた。
  否定しようとしても、この数十日間の自分が何よりもその事実を証明している。
  続く困惑といらだち。
  始まりは──あの試験会場だ。
  律は、答えの見つからないもどかしさに唇を噛んだ。
  ──何だっていうんだ、いったい…。
  幾度も繰りかえした問いかけに、この時も答えは出てこなかった。
  降り注ぐ花びらに誘われるように視線を上げる。
  頭上の少年の、枝にしがみついたまま身動き一つ取れない様子に律はため息をついた。
  何で俺が、とも思ったがそのままでは一生枝に引っ掛かったままになりそうな姿に譲歩し、声
 をかける。
 「手伝おうか?」
  さほど大きな声でもなかったのに、少年の体がビクリと跳ね、続いて枝からずれ落ちそうにな
 った。
  驚いた律があわてて受けとめようと一歩踏みだしたが、何とか枝にしがみつき直したようで体
 の揺れが止まる。
  少年の頭がそっと動いた。
  大きく見開かれた瞳が、真直ぐに律を見つめる。
  その時ざっと音をたてて風が踊り再び視界が桜色のヴェールで覆われた。
  一度上空に舞い上がった花びらの群れが、光りを透かしながら音も無く舞い降りてくる。
  律は瞬きをするのも忘れて、その薄紅色の花を映した瞳を見つめた。
  記憶の中のものではない、目の前の二つの瞳。
  胸の奥で緩やかに広がっていく柔らかな、何か。
  戸惑いよりも先に息苦しさを感じて、律はそっと目を伏せた。
  呆然と律を見下ろしていた少年が、ふと我にかえった様子でせわしなく瞬きをすると、頬を赤
 く染めた。
  何とか体勢を変えようと身じろいだようだったが、どうにもならないことがわかったのか一層
 頬の色が深まった。
 「手伝おうか?」
  律はもう一度繰り返した。
  強まった困惑が、平淡な声を出させる。
  頭上の少年は一瞬躊躇した表情を見せた後、律から視線をそらして消え入りそうな声でこたえ
 た。
 「…お願いします」
  あの日の歌声を思い出させる、やや高い声。
  燃えるように赤くなったその頬を、桜色の花びらが撫でていくのが見えた。
 「俺が下でうけとめるから飛び下りろよ」
  無理に枝を伝って降りようとすればまた足を滑らせるに違い無い。そんな危なっかしいことを
 するよりもさっさと飛び下りてしまった方が賢明だろう。それに遠目に見ても細くて軽そうな彼
 を下で受け止めることくらい、律には造作の無いことである。
  だがお世辞にも身のこなしが軽やかとは言いがたそうな彼にとってはそれほど簡単なことには
 思えないようで、律の言葉にぎょっとしたように地面を見た。
 「そんなにびびんなくったって大丈夫だよ」
 「び、びびってなんか…」
  力一杯枝を握りしめながらの台詞に、内心笑みがもれる。
  だが律の口調は相変わらず淡々としていた。
 「じゃあまずその手に握ってる紙。それまず落として。そのままじゃ動けないだろ」
  察するに彼を木に登らせたのはその紙に違い無い。よほど大事なものなのか、しっかりと握ら
 れていた。
 「早く」
  促すと、やっと手から放たれた。
  律のもとへ届かぬうちに風がふわりと舞い上げる。
 「あっ」
  あせった声が頭上から聴こえたが、律は軽々とジャンプして紙をつかまえると自分のブレザー
 のポケットにしまった。
 「次はおまえだな。そこの枝にぶらさがってから手を離すかんじで飛び下りて」
  何やら物言いたげな顔で少年が律を見下ろした。
 「おい、聞いてんのかよ。ゆっくりでいいから、ケンスイの要領でぶらさがって。それくらいで
 きるんだろ?」
  何となくそわそわとして、つい口調がきつくなる。
  案の定少年はムッとしたようで、その眉をひそめた。
 「できないのか?」
  怒らせてどうするのだ、と頭ではわかっていながらも柔らかな言葉が出てこない。
  ──何でこうイライラするんだ?
  もともと愛想の良いタイプではなかったが、こんな風に何も悪くない相手に理由もなく腹をた
 てるようなことは今までなかった。
  この気持ちは何だろうか?
  胸の奥の方で燻っている何か。
  その黒目がちな瞳を見ていると、無性にイライラしてくる。
  まだ何も…名前すら知らないのに。
  頭上の少年はぎこちない動作でゆっくりと枝にぶらさがると、観念したように目を閉じた。
  律は胸の奥の靄を吐き出すようにそっと息を吐くと、両腕を差し出した。
 「離して」
  少年の指が枝から離れた次の瞬間、その体は律の腕にしっかりと抱きとめられていた。
  首に腕をまわしてしがみつく少年の髪が律の頬に触れる。
  抱きしめた体の細さが心許なくて、律はできるだけそっと地面へ下ろした。
  ブレザーを着ていない少年の背中に回された手に、緩やかな体温が伝わってくる。
  律の腕の中にすっぽりとおさまっている、頭一つ分は優に小さい体。
  見た目以上に細くてすぐに壊れてしまいそうなのに、健やかな柔らかさがそこに確かに存在し
 ていた。
 「あの…?」
  おずおずとかけられた声にはっと我にかえる。
  彼の足はもうちゃんと地面に着いているというのにまだ回されたままの状態の自分の腕に気付
 き、律は弾けるようにその体を離した。
 「…悪い」
  何とかそれだけつぶやくと、少年に背をむける。
  ──いったい俺は何をやっているんだ…!?
  信じられない気持ちで頭の中が混乱する。
  認めたくない思いが頭をよぎる。
  ──今、俺…
  律は目を見開いた。
  抱きしめたい。
  そう思ったのだ。
  緩やかに回していた腕に、もう少しで力を込めそうになった。
  あと少し、少年が声をかけるのが遅かったら…。
  その事実に律は愕然とした。
 「あの…ありがとうございました」
  背にかかった声にどきりとする。
  動揺する気持ちを隠そうとして、振り返った律の顔は殊更不機嫌なものになった。
  脇の方に放り投げてあるバッグとブレザーをちらりと見る。
  細い体に纏った白いシャツがやけに肌寒そうに思えて、律は口早に言った。
 「ああ、礼なんかいいからさっさと上着きろよ。おまえそのバッグ寮に置きに行くんだろ?」
 「あ、はい。そうです」
  入学式が始まるまでまだ時間があったが、山の上にあるこの学校の敷地の広さはハンパではな
 い。同じ敷地内にあるとはいえ今日から生活することになる寮までの距離もここから大分ある。
 律はもう入寮を済ませていたが、見たところ彼はまだのようである。とりあえず寮に向かうのが
 賢明だろう。
 「俺も寮に戻る。行くぞ」
  無愛想な声でそう言って歩き出すと、少年は慌ててブレザーを羽織って律の後についてきた。
  背中に遠慮がちな声がかかる。
 「あの、寮ってあっちじゃないんですか?」
  見ると、少年は歩き出したのと反対の方を指差している。
  そちらは確か行き止まりのはずだ。そもそもここだって通り抜けるための道ではない。ちょう
 ど今の律のように、ぶらっと桜を見に来るためにつくられた所なのである。
  ──わかってて来たんじゃなかったのか?
 「寮はずっと向こうだよ。何、おまえまさか寮に行こうとしてこっちに歩いてきたわけ?」
 「だって矢印がこっちになってたから…」
 「矢印? ああ、あれのことか?」
  ちょうど広い通りに合流するところまで戻って来たところだった。分岐点に置かれた道しるべ
 が見える。「学生寮」と書かれた木製の道しるべの矢印は、まっすぐに先程の桜林の方を指して
 いた。
  ほらね、と言いたげな少年の無邪気な顔を見て、律はあきれた声を出した。
 「おまえさ、ここどこだかわかってるか?」
 「どこって…」
 「男子校だぞ、男子校。しかも全寮制の」
  さっぱりわかってないという顔をしている少年を見て、律は矢印を長い指でたたきながらため
 息をついた。
 「こんな山奥に男ばっかで暮らしてんだぜ? ほとんど毎日一日中この限られた空間で過ごすん
 だからさ、」
  いったん言葉を切って、道しるべをくるりと回した。
  裏にも同じく「学生寮」と書かれていて、矢印は桜林とは反対方向の道を指した。
 「ヒマは腐るほどあるってわけ」
  少年はぽかんと矢印を見つめる。
 「…これいたずらだったんですか」
  ──だってさっきの裏側の文字、どう見ても手描きじゃねぇか…? 気づくだろ普通…。
 「ここには男しかいないんだからさ、何でも手加減なしってことだよ。…それよりおまえ、」
  律はいやそうな顔で続けた。
 「さっきから敬語でしゃべってるけど、タメなんだからやめろよ。気色悪ーな」
 「あ、はい…え? タメって…い、一年生? 上級生かと…」
  少年は驚いたようにまじまじと律を見つめた。
  ──悪かったな、一年に見えなくて。大体おまえこそ本当に高校生かよ…。
  丸みを残した柔らかそうな頬。
  さらさらと額にかかる黒い髪と、邪気のない瞳。
  律は、自分の顔をぽかんと見つめている少年から一瞬視線をはずした後、また向き直った。
 「上級生って…馬鹿じゃねーのおまえ」
 「へ?」
 「へ?、じゃねーよ。…ほら」
  律は長い指で自分のブレザーの襟元と袖口を示す。少年のものと同じく、濃いグレーのブレザ
 ーのその部分には臙脂色の細い線が入っていた。
  少年は思い出したのか「あ」と小さくつぶやいた。
  一流デザイナーが手掛けたという綾村学院の制服には学年別に異なる色の線が入っているのだ。
 「あのなぁ。ったく、大丈夫かよおまえ」
 「何だよ、ちょっと忘れてただけだろ」
  露骨にあきれる律を見て、少年の声も不機嫌なものになった。
 「だいたいさ、なんでずっと怒ってんの? そりゃ迷惑かけたけどさ」
  律の足が止まった。
  ──怒ってる?
  確かに律は腹をたてていた。
  少年に会ってからずっと。
  ──でもそれは…
  再び答えのでてこない疑問が胸を覆う。
  律は眉根をよせて振り返った。
 「怒っているように見えるか?」
  低く淡々とした口調で問うと、少年はひるんだように瞬きをした。
  それでも挑戦的な態度を何とか保って答えを返してきた。
 「お、怒ってるだろ」
  頭一つ分下方から睨んでくる様子が何やら微笑ましく思えたが、律は一拍の間の後、不機嫌顔
 を崩さずにたたみかけた。
 「ほんとに怒ってるように見えるか?」
 「…た、たぶん…」
  たちまち語気が弱くなる。
  ──……おもしろい。
 「鈍そうなわりにはなかなか鋭いじゃないか」
 「は?」
  意味をとりそこねてぽかんとする少年をまっすぐに見つめたまま、律は淡々と続けた。
 「俺はおまえのせいで家から追い出されたんだからな」



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のんびりしてるうちに桜の時期が終わってしまいそうですね(-_-;)
律視点、思ってた以上に難しいです;書いてる私にもよくわからん男です。何か痴漢してるし(笑)

(2002.03.25)